4月11日

インターネットの中身は過去である。その中に未来はない。今日の出来事を日記にタイプしたら、それはすでに過去である。明日の予定を書くことはできるが、明日の車の窓を開けて入ってきた空気の色彩はわからない。インターネットの特技はアーカイヴである。デジタルの入れ物である。そこにいれるのは、色やにおいではない。圧縮された情報の断片、アドレスである。色彩や時間はわれわれが持っている。デジタルの箱に入れてあるかけらを取り出すと、われわれの箱にしまっておいた色彩が動き出す。情報とは、言葉とは、面影の起動スイッチであり、圧縮されたなにものなのではないだろうか。目に見えてるものは平面だが、両目のずれによって3Dに見えるように、情報はそもそもずれている。われわれは世界を理解するために、情報を略図し、細部の情報をはがし、一口サイズに切り分けて、認知する。

 

理屈、屁理屈というけれど、そんなのはどうでもよくて、理屈を組み立てる目的は、再現性のためである。カオスな世の中で、再現性を実現させるためである。南千住のカフェ、バッハコーヒーの田口さんの著書を立ち読みしていたら、再現性のことについて書かれていた。正確な文章はわすれてしまったが、「理屈を組み立て再現性をめざすこと。」というような内容だったと思う。

 

帰宅したら、白洲正子『十一面観音巡礼』、ちくま全集『寺山修司』、プラネタリーブックス『超民族学』が届いていた。コレヤヴァイ。今夜は眠れない。