4月9日

 

「目に見えないものなんて信じられない。信じられるのは数字だ」とひとは言う。数字はそんなに信じられるのだろうかと感じている2019年4月。街を歩けば電光掲示板に流れる数字、定刻通りに発着する電車。数字は絶対なのだろうか。

 

分かりやすい数字、確率を持ちあげすぎてはいないだろうか。注意深く世の中を観察していると、不都合な真実をそうではないと、二重思考していることが多いようにおもう。体ではちょっとおかしいと感じているのに、数字が正しいと言っているから正しいと思い込んでいやしないだろうか。(もちろん数字を指標にするときもあるけれど、過信しすぎてはいけないよ。)天気予報の降水確率はあてにならないし、フラーのシナジーをどう説明すればいいのか。

 

カーラジオからエレファントカシマシの「4月の風」が流れた。Twitterの黎明期のことを思い出す。そのころのデジタルな場所はいまとすこし雰囲気が違っていた。使い方はいまとさほどかわらないが、自分の住んでいる近くでは会えないようなひとが行き来し、一風変わった独自のスタイルやシナリオを持っているひとが出入りしていた。高校時代にキューバを旅していた女の子は、水曜日のカンパネラのコムアイだった。無名の時代の彼女を知っている。いまはデジタルなジェントリフィケーションが進んでいるようだ。それにつれて、そんな人たちはどこかにいった。ぼくも離れている。たまたまが交差する場所が心地よかった。

 

インターネット黎明期のインターネット的なサーフィンが楽しかったのは、時間に制限が無く、地図やナビを持たずに車に乗りこんで、国道や高速道路のような無味無臭な道ではなく、生活の面影が隙間見える県道や市道や村道や私道をぶらぶらして、おっと気になった場所に立ち寄る感じにちかい。たまたまの原因が交差していた。

 

 

いまや、時を経て、検索エンジンに打ち込んだ問いの答えは無条件に正しい(唯一無二)とおもいこんでしまいやすいが、それは広告付きの忖度な答えである。

 

 

さて、「今日の常識、明日の非常識」という金言がある。嘘です。いま作りました。それはさておいて、決断するときには、合理的な馬鹿者である他人の当たり前より、自分の腹で決めたほうがうまくいく。

 

数ヶ月来ていたバイト君がやめる理由は、他人にちゃんとした仕事に就きなといわれたからのようだ。ちゃんとした仕事ってなんやねん?そもそも、仕事とは?仕事ってなんなの?安定とは?自分はどれだけ稼げばいいの?時間は?そんな彼にエピクロスの言葉を捧げたい。

 

「そもそもわれわれが重くなるのは、みだりに超越者を想定することに由来する。自然の意志や神の意志がわれわれのあずかり知らぬ軌道において全権を発揮していると考えることは、とどのつまりは自分もその意志の一部分を担おうとする自己拘束を生む。多くの哲学や科学はこのように自縄自縛をいったんつくったうえで、これを克服しようとばかりしてきた。ところが、そもそも自然も神もずっと気まぐれであったのだし、われわれの感覚といつでも自由交換できる浮気者であったのだ。」

 

仕事から帰宅して、高城剛『2049 日本がEUに加盟する日』を読む。30年後の未来予測の本。はじめにに、「つまるところ、AIが問題なのではなく、利便性に長けたテクノロジーに依存してしまう人間が問題なのである」とある。

 

時間がないとひとはいう。本当にそうだろうか。1日の時間を振り返ってみてほしい。これまで人力でしなければいけなかったことは、テクノロジーによって容易にすばやくできるようになった。テクノロジーによって時間を得た現代人は、その時間を何に使っているのだろうか。テレビを1日3時間見ると、1週間で21時間になる。1週間で約一日。テレビを見ないひとの1週間は七日、テレビを見る人は1週間が六日なのだ。ゲームやSNSで日が暮れる。それはなぜか。迷子になる人の言い訳は時間がないことと、傘k口恭平さんが呟いていた。目的や指針がないから、テクノロジーで得た時間を浪費しているに過ぎないのだとおもう。

 

Googleの検索窓に、「わたしのやりたいこと」と入力しても、わたしのやりたいことはでてこない。