4月8日

寺尾紗穂『彗星の孤独』をよみながら、文章と文意と文脈から溢れ出てくる彼女の姿勢が大事なのは感じ取っていたが、まだそれを言葉にできずにいた、それがどんなものなのか正体が分からなかった。それが昨日車に乗りながら、そのもやっとすたものが言葉に変わった。

 

その姿勢というのは、ものごとを「といえば」のステレオタイプだけでみないということだ。ものごとをみるときには、ステレオタイプを見て、「とはなにか」のプロトタイプを考え、さらに「そもそも」のアーキタイプに精通することだ。この三つの見方でものごとを捉えると、生活が多面的になり、読書が重層的になり、旅が濃厚になり、会話にアナロギアとミメーシスとパロディアを配置できる。

 

先日の日記には、松岡正剛『感ビジネス』の「パンとサーカス」を取り上げた。世の中がステレオタイプで溢れている。これからおもしろいことをやろうとものなら、既存のものから新しいものを発見しようものなら、この3つの見方、略図的原型をとらえる力が頼りになる。(加えるなら、ふたつのまったく別分野のものを斜めに繋げる空海のような力も必須だろう)

 

と、ものごとを見ることができるようになったのは、ここ数ヶ月通っていた辛くて楽しかっら学校の稽古のおかげである。無意識を意識的にとらえること。この視点でいろいろを捉えてみる。春といえば?選挙とはなに?そもそも宗教って?

 

■わたしの行動倫理(20代前半から30代前半)

興味を発電する(疑問に思ったことを問い続ける、好きなことを追いかける)→その分野の本を1ヶ月ひたすら読む→だいたいの地図が分かる(その分野の専門用語が分かるようになるのが基準)→その分野の先人に会いに行く(方法はたくさんある、お金を払うか、講演に足を運ぶか、知人に繋げてもらう)→そこで初めてアドバイスを受ける→長期計画を立て、そこからステップを作り、毎日コツコツやること