5月4日

都市と田舎を高速移動したい。

定住と移住を繰り返したい。

スタイル(様式)でいつまでも反抗したい。

 

試合で今日も大阪へ。ゴールデンウィークのため電車移動。四条烏丸から阪急に乗って高槻へ向かう。たまに乗る電車は新鮮でいい。10時過ぎ、四条烏丸発の阪急は穏やかで、西院を超えて地上に出ると車窓から見えるのは新緑。春が去るのが悲しかろうと春が悪いわけではないが、緑が萌えるのは止まりそうもない。季節は移ろう。

 

先月Miho Museumに曜変天目茶碗に会いに行ったときのこと、春季特別展 「大徳寺龍光院 国宝 曜変天目と破草鞋(はそうあい)」と銘打たれた展示を、熊倉功夫さんの案内を聴きながら巡った。

 

その最初に破草鞋のことに触れ、熊倉さんは、「破草鞋とは、破れ草履のこと。役に立たないぼろ草履とはなにか?役に立たないとは、見た目は役に立たないということ、つまり本質に目を向けると、どうだろうか?ということ、価値のつけられないことに価値がある。それは、宮沢賢治のデクノボーのようなもの」とおっしゃられた。

 

そんなことを突然思い出し、スマホで青空文庫の『雨ニモマケズ』を読む。緑の景色はすぎていく。デクノボーに、千夜千冊の池澤夏樹『春を恨んだりはしない』がくっついて引っ張り出されて来たから読むと、冒頭に牧水の「山ねむる 山のふもとに海ねむる かなしき春の国を旅ゆく」とあって、先日の白山のことを思い出す。

 

最近人とはなしていると、そこそこ比喩や韻を思いつくようになった。ラッパーになりたいわけではない。千夜千冊のキエラン・イーガン『想像力を触発する教育』に、「②柔らかい「比喩」をいろいろ使ってみる。⑤「韻」と「リズム」と「パターン」に親しんでいけば、さまざまな言葉になじめる。」とある。松岡校長の調味料付き。韻を踏もうと考えながら話すようになった。一見すると全く辻褄のない話を繋げるように考えるようになった。そんな変化に気づいた。

 

さて、今日もいろいろあったけれど。どんな理屈にも、「へ」はつけられる。誰かが、たとえば、上に立つ立場の人が、それ「へ」理屈やといえば、そのグループでは屁理屈になりえない。(という屁理屈ですけど。)ついでに、数字が根拠の理屈が正義や絶対を振りかざしているここのところだが、そんな訳はない。(数字をひとつの判断材料とするのはいいが、絶対ではない。)そんなときには自分の物差しを用意しておくとよい。

 

ヒドリノトキハナミダヲナガシ

サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナニデクノボートヨバレ

ホメラレモセズ

クニモサレズ

サウイフモノニ

ワタシハナリタイ

(宮沢賢治『雨ニモマケズ』より)