4月6日

ちらっと気になる箇所だけの、つまみ読みの『老子』が夢に出てくるとはおもってもいなかった。『老子』を読んでいると、腑に落ちることが多い。老子の姿勢とぼくの姿勢が同じ方角を向いているような気がして、やはり老子は日本の風土の奥に溶けているような気がした。やっぱり日本はアジアだなと思う。 『老子』がなにを言っているのかというと、上善は水の如し、和光同塵、弱いが強い、フラジャイル。いやあ好きだわ。

 

さて本日の夢。わたしは宙ぶらりんであった。やりたいこと、行きたい場所、目標、決意など、なにもないわたしであった。

 

叱る先生がいる。その先生を怖いと思う生徒はその先生の言うとおりにするが、話しを聞いていない。ちゃんと聞いているふりをする。その先生をリスペクトしている生徒は叱られているときに、「先生優しいなあ」と感じる。

 

なにかに直面したとき、どう感じるのか、の出発点は、フラジャイルなわたしだ。われわれは万事健康だとしても、目の前には問題が現れる。問題に出会ったとき、あれ、おかしいなと感じたら、一気に問いにしていく。ごまかさない。なに不自由なく生きていける時代では、流されるまま、考えないで過ごしてしまう。たとえば、食べるもの、たとえば、勉強、たとえば、生きること。

 

こうして、宙ぶらりんだったわたし=問題なく不自由なく生きているわたしは、問題に出会い小さな芽である疑問を引っこ抜くことなく大切に育ててきたことで、どこへ行きたいのか分かるようになった。それなら、やはり、瑣末を、無駄を、異質を、異端を、エラーを、フラジャイルを、愛すべきなのだ。そこからすべてがはじまるのだと、老子は私に言った。

 

10時ごろ起きて、野菜を買いに行く途中の交差点で選挙の街頭。「よろしくおねがいします」と大声で叫ぶ選挙関係者。そんなので世の中が変わるのなら誰も苦労しないよなあとおもいながら、家に帰ってカレーを作る。今日は3食カレー。夜のカレーを食べながら、一日中テレビの前でごろんとしていた親父に、選挙のことを話題に話をしようと思ったがやめたのは、パンとサーカスのことを思い浮かんだからだった。

 

松岡正剛『感ビジネス』の『パンとサーカス』を再読する。気になるところを抜粋させていただく。「抗しがたい進歩の願いをこそ、抗しがたい退行のの呪いと見なければならないことがある。時代を大胆に前に進めるのは賢しらな正の理念ではなく、一見しては寂寞を装う負のCPUであるときがある。」「この社会が価値に関するステレオタイプ(典型)だけを次々に量産していることは気がつきにくいということである。ステレオタイプばかりつくられると、いったい何がまずいのかといえば、その奥にあるはずのプロトタイプ(類型)が見えなくなり、さらにその奥にあるアーキタイプ(原型)に目が届かない。」「大衆心理が世の中のすべての決定権をもつということになると、われわれの歴史文化にひそんできたアーキタイプが何かということは、ほぼ看過されていく。これこそが古代ローマ帝国以来の「パンとサーカス」現象なのである。」

 

いろいろ言ったところで、「一般的には」とか「世間はこうやから」などとよくわからないことをいいはじめ、「それってなに?」や「ぼくはくおもうけど、あなたは?」と聞き返すと、感情的になっていきなりキレ出すのだから、ぼくは、サリンジャーの笑い男のように、「You know what I'd like to be? I mean if I had my goddamn choice, I'd just be the catcher in the rye and all.」なったほうがいいのか、or notなのか、なんて。

 

だから、ぼくは、「隣の芝生は青い」作戦をひそかに実行している。誰もがやらないこと、知らないけど楽しいことを、彼らが気づかないうちにフライングして実行することである。今日もせっせと楽しく気ままに芝を育てる。