4月1日

4月です。元号が「令和」と発表されましたね。しかしまだ平成です。「平らかに成る」という元号にこめられた願いを、30年続いた時代を振り返って眺めてみると、いろいろが「平らに成った」ようにおもう。フラット化する世界、フラット化する欲望、フラット化する我々自身。そんな時代ではどんな瑣末もエラーとしてひとくくりに捨てられる。エラーは問題であるがしかし、問題があるからこそ、それを解決するための思考や方法が養われるのではないだろうか。古代の文明が大河沿いに発生したのは、水との戦いがあったからなのだろうから。それだからこそ、われわれは、瑣末を訝しまず、付き合っていかなければいけないとおもう。

 

「いささか図々しいお願いですが、私としてはみなさんに、そのような弱者の世界に、積極的に自分の魂を住まわせてほしいと思うのです。みなさんがこの表象・メディア論系で学んだのは、そうした魂を自らのなかに育てることなのだと思います。それを誇りにして社会のなかで生きていってほしいという私の勝手な願いを祝辞に変えさせていただければと思います。」(早稲田大学 表象・メディア論系卒業生に贈る言葉 長谷正人先生 http://hyosho-media.com/news/2019/0331_1-38.php )

 

失敗の原因を探したときに、ほんとうにたまたま失敗しただけのことを深く追求してしまうのがいまなのだろう。もっと余白や、異質や、弱者や、フラジャイルに目を向けていきたい。

 

夜、スーザン・ソンタグ『反解釈』にある「キャンプについてのノート」が、田中優子『江戸の想像力』の序文にあることを知り読む。

 

東京で話していた日々は数週間前だけど、いまだに、放課後のようなネットワークがつづいている。クラスメートのひとりが、「時間は財産説がめちゃくちゃ身にしみる3月でした」と言った。そういえば、そんなはなししたなあ、「お金を湯水のように使えるアラブの石油王以外は時間は財産」説の。

 

東京から帰って来て数日はしばらくからっぽで、ぼーっとしていた。むくむく春の新芽のように、やる気が出てきているの4月、平成最後のひとつき。区切りといえば区切りだけど、もともとは何もない空気を言葉によって区切っていくことで作っていくのが世界なのだろう。毎日は続いている。今日も本を読む。