3月25日

坂口恭平『現実脱出論』を読む。小さい頃に感じていた感覚をいまも持ち続けていて、ふとした瞬間に思い出す。世間(アノニマスなひとびとの無意識が作った世界)の一般は正しく、「わたし」の感覚とそれとのずれが生まれたとき、「わたし」がおかしいと思い込んでそれを抑制しているとハッピーじゃない。幼心のころにはそんなこと気にもしなかったろうに(だからぼくはいつまでもガキなのだろう)。こういうとき、感覚は多様なのだと知っていると、なんともおもわない。いまいちど本著を読まれたし、大事な瑣末が書かれている。

 

だから、サッカーばかりやっている少年がいたら、本を読んだらとか、旅に出たらとか、野球もやったらと言いたい。「いや、おれ、プロサッカー選手になるから」って言ってサッカーにしか目がいっていないやつにはなおさらそう言いたい(特定の分野のみの英才教育はもちろん成果は出るだろうが、それを是とすることから派生する、ダーウィンの進化論の亜種のような論調には注意したい)。別分野の視点や感覚や方法は、他分野のブレイクスルーに間違いなく連結している。ただ連結させるための方法は別口であって、それは先達から学ばなければわかりにくいものだと、先の学校の稽古で重々体験した。今年はその深みへ邁進する。新しいことはいきな り生まれるのではない。

 

仕事から帰って、晩ごはんを作る。外はお味噌汁を欲するほどに寒い。春キャベツの柔らかさから寒さもだいぶ緩んできたんだなとおもい、新玉ねぎのスライスを生で食べても苦くないから春なんだなとおもった矢先なのに。春野菜の苦さに冬眠から目覚める。

 

東京の友人から参加できなかった講演の音声が送られてきて3回聞く。これからのことを少し考えようかなっとおもうくらいまで、学校を終えてからからっぽだったぼくのなかになにかで満たされてきた。蛹はの中身はなにかしっていますか。