1月20日

雨の止んだ19時過ぎに家を出てKhruangbinを聞きながら、街の大型書店に向かった日曜の夜。多くの人は都市と田舎の違いはひとの数だと言うが、それは間違いではないのだが、ぼくは文字の多さをそれより感じる。

 

大型書店へ行った目的のひとつは、Amazonのほしいものリストにある本の内覧だ。立ち読みだ。ウインドウショピングだ。ほしいものを手にとらず買うことを覚えて久しい。

 

ふたつめは、ぶらぶらしながら、目に留まった本に、意図もない偶然を感じるため。Amazonのレコメンドはそれはそれは素晴らしいのだけど、流石に偶然という機能の実装はされていない。購入履歴や嗜好から好きそうなものを推測はできても。おすすめの本はほとんど範囲内の本ですばらしいのだけど、書店で求めているのは予想外の本なのだ。

 

店内をぶらぶらすると、目当ての本が書棚に埋もれていたから、ささっと手にとってまたぶらぶら。伊丹十三の本はこれはのちのち買うだろうなとチェック、ウナギの本はうなぎのことを語ったあのひと絶対これ読んだななんて。村上龍『すべての男は消耗品である 最終巻』は「今、何も流行っていない」からはじまっていた。なにごとにも終わりはあり目に見えるものは消えていく、されど哀愁や愛着は記憶に面影として残るのだな。

 

ああいま通っている学校もあと一ヶ月で消える。消えるから思い出すための装置として、ものがある。まだ温かい座布団から、ちょっと前にそこに誰かが座っていたことがわかる、なんて思ったら、午後10時前の閉店シャッターに閉め出され、駅前のロータリーで凍える。明日からまた自由研究な日々が はじまる。