12月16日

4時30分に家を出て、和歌山へ向かう。年に数回、和歌山で試合がある。夜も明けていない暗い時間から、西へ車を走らせ、奈良を南北に縦貫し高野山の前を通って、和歌山にはいる。この道のりが定点観測になっている。去年のわたしといまのわたしを定点観測している。同じ道を通ると、以前の自分といまの自分の差に気づく。その自分を眺めてみる。

 

去年は、ここが高野山なんやとおもっていたなあ。ここに丹生都比売が祀られているのか。山を見ると地層が大台ケ原の方へ向かってはしっている。水銀の脈なんだろな。丹生だもんな。四国から続いている地脈は、東北までいっているのよな。四国生まれの空海はその地層をたどってここに行き着いたのじゃないのかなあ。なんて想像する。水銀は中国と密教と山岳と科学と錬金術と修験者で串刺しできる。

 

ああ、夜が明けてきた。曙か朝ぼらけだろう。いや、冬はつとめてか。僕たちが朝と名付けているものの目盛りははっきりしているようでいてそうではない。というのは、「らしさ」で仕分けているから。

 

ひとが時間を発見したのは、ナイル川が氾濫したからではなかった。ナイル川が氾濫しているとき、いつも同じ方角に星が光っていたからだという。何か新しいものを見つけるには、軸が二ついるのだ。と何で読んたっけかな。「らしさ」の軸をふたつ見つける。それって、すでに我々が使っている。無意識なだけで。組み合わせを、そりゃないやろってものに変える。

 

帰宅したら、おやじが、注連縄をプラスチックに変えたら数十年持つからいいなあ、といった。それは違うだろう。どの口がいうのだ。本当にそう思っているのなら悲しい。とても悲しい。悲痛だ。大人に不足しているものは、神話や物語やアナロジーなんだろうな。とても悲しい世の中です。(まあそれとは逆にそういうのが大切だと思っている人にたくさんであっているから希望もあるわけですが。)その選択が地域を破滅へ向かわせるようです。だから、自分の住んでいる場所をリスペクトできないひとが重要な役目を任せられている場所なんて住みたくなくなるってもんだろ。気づけよ。ほんとに。ぼくは怒っている。

 

おやじをこうさせたのはいったい何なのかと考える。個人の思い出はあっても、地域のまたは日本のクニの思い出がないからではないかと考える。そう思って、柳田國男『日本の昔話』を読む。師匠の師匠は稽古とは、稽古というのは、古を稽える(かんがえる)、という意味です、という。