9月11日

朝、山へ向かう道中、窓を開けて軽トラを走らせていると秋を感じた。こんなときにはNorah JonesやAdeleやMassive Attackのteardropがいい。

今月はムナーリを読む。というわけで、『デザインとディジタル・コミュニケーション』から読みはじめる。すべてはなにを持って、なにを見るかに集約されているとおもう。ムナーリは、知っていることを見ているといった。少し長くなるがわかりやすいので引用する。

「優秀な印刷工が新刊を手に取ると、まず表を見て裏を見る。そしてしっかりと指で折り目をつけながら本を開く。どのようにレイアウトされているか、書体は何を使っているか、オリジナルの文字なのか、どこかから借用してきたのか、じっくりとタイポグラフィーの特徴を見る。紙を触りながら綴じ方に目を移し、背表紙を見る。丸みを帯びているのか、角張っているのか、どのように本文がはじまるのか(どのくらいの高さか)、どのくらい余白があるのか、ページ数はどこに打ってあるか、その他いろいろなことについてじっくりと批評のまなざしを向ける。一方印刷について何の知識もない読み手は、タイトルを読み、値段を確認して、購入し、本文を読む。どんな文字の題字だったか聞いてみても無駄。何も分からないし、興味もない。彼のもつ個人的イメージの世界には、こういったことになんの接点もない。なぜなら、まずそれについて知っている事柄がなく、どんなタイポグラフィーの文字かなんてことは見てもいないのだから。」(ブルーノ・ムナーリ『デザインとデジタル・コミュニケーション』より)

一般にサッカーをみるとき、ゴールシーンやテクニックを見ている。けれどサッカーの監督や解説者は、ゴールを奪われたシーンから遡って、選手がボールを失ったプレーを注意深く見ている。

「なにを持って、なにを見るか」において、「なにを持って」が大事で、なにをもってを考えるときにとても役立つのがムナーリなんだとおもう。「なにを持って」を発見できれば、本を読むのも、旅をするのも、もっと楽しくなる気がしてならない。リンゴを見てもリンゴとしか連想できないのはもったいない。