8月4日

夜、白洲正子『近江山河抄』を読み直す。数日前に読み終えたときの面影がまだ残っている。

 

「自然を活かしているのは言葉なのだ。或いは歴史といってもいい。(中略)自然は、−少なくとも日本の自然は、私たちが考えている以上に人工的なものなのだ。」

 

「木と石と水−それは生活に必要なものを生み出す山のシンボルであり、日本人の内部に秘められた三位一体の思想である。」

 

「伝統をうけつぐとは、過去にしがみつくことではなく、あくまでも前向きの姿勢を崩さないことだ。それはひとえに古人へ対する愛情の深さによる。」

 

「現代人はとかく物事を政治的な面でしかとらえようとしないが、まつりごとが祭事であった時代に、故郷の自然を離れることは、魂のより所を失うことを意味した。」

 

「日本人にとって、自然の風景というものは、思想をただし、精神をととのえる偉大な師匠であった。そして、その中心になる神山、生活にもっとも必要な木と水を生む山が、女体にたとえられたのは当然であろう。」

 

「信仰の形というものは、その内容を失って、形骸と化した後も生きつづける。そして、復活する日が来るのを息をひそめて待つ。ということは、形がすべてだということができるかもしれない。」

 

 

とまあ、このあたりに注目するようになったのは、正剛さんの著書を数冊読んでから、白洲さんの本を読んだからだ。食べ合わせがあるように、読み合わせもある。