7月29日

白洲正子『近江山河抄』を一気呵成に読み切る。おもしろい!実は数年前に書店で手に取ったことがあって、そのときはどうもすすまなかったため、買うのを控えた。それがどうだ。いま読むとめちゃめちゃおもしろい。んー。以前は近江の地名のことしかわからなかったが、いまは白洲さんの言っていることの感覚が掴めるようになっている。ぼくが年をとったからか、いやただ年をとるだけじゃ変わらないから、ぼくのレベルを引き上げてくれた本を読んだからなのだろう。再読の楽しみは、過去の自分と今の自分のアイダ(差)がわかることにある。まだまだ白洲さんとぼくの差はすごいある。ぼくが能のことをお能と呼べる日はくるのだろうか。

 

前と今のアイダになにがあったか思い浮かべる。そうすると、やっぱりといべきか、ここ数年の多読があった。もうすこし細かくいうと、日本の見方を変える、解像度をあげる、深く見る、こちらのレベルを引き上げる数冊の本が頭に思い浮かんだ。いままでわからなかったことが、わかるようになるには、通らなければいけない門がある。その門は先にあるから見えない場合が多くて、ほとんどの場合は振り返ったときにしか、その門の存在に気づかない。だから、ある分野を限定して、わからなくてもひたすら本を読み続けるとあるとき、「そういうことか」という瞬間に出会うからそのとき振り返ってみるといつのまにか門を通り過ぎていることに気づく。その「そういうことか」の瞬間、気分は高揚する。その一瞬を楽しめる、そういう本をすすめたい。

 

多読のいいとこ、1)大河の流れ(分子と分母)、2)そのものの性質(才能)、3)ミトコンドリアイブのような原始の姿(自然への回帰となりたち)、4)知識を増やすと世界の隅々が見える(言語化)、を身体に蓄えられること。

 

1)冬の寒いと夏の寒いが違うように、歴史を見るときに、あるできごとをスポット的に見たときと、その出来事の前後や背景の流れを知った上で見たとき、そのできごとは全く違うものに見える。

 

2)なにかをみるときにのものの見方が重要になる、見方とは基準やルールや限りのこと。じゃあぼくは何を大切にしたいかというと、「才」と「能」だ。二つ揃っている人をぼくは師匠や先達と呼ぶし、ふたつそろっている建物や絵やなんでもを一人前だとおもう。ちなみに、どちらかひとつしかないものは、半人前。

 

3)女性の周期と月の周期がほぼ同期しているように、また、植物の葉緑素と人の血液が同じ分子構造をしていたり、腸と土は同じ性質があったり(植物を育てるのに大事なのは育て方より、種と土だという)、ミトコンドリアと核DNAなど、元の元を辿って見ること。

 

4)樹木や植物の名前を知って山に行く、のとそうでないのとでは、山の見え方がちがう。その土地の伝承と神社と山や川の関係と地名を知っているのと、そうでないのとでは、見た景色が違う。

 

夜、バラカンビートを聞きながら、湯の山温泉へ。台風のあとのすばらしい夕暮れをバックに暮れた街を駆けて峠を越える。窓を開けて、気持ちいい音楽をかける。温泉でひと息入れて蘇れば、帰りの車は、ボブ・ディランのA Hard rain's gonna fall からのIdiot Windで、今日行けなかったフジロックのディランのライブに思いを馳せる。夏は夜とだれがいったか、温泉上がりの夜、最高です。いまはジョニー・ミッチェルのThe hissing of summer grassが流れる。夏の夜、雨上がりのドライブにぴったりだよ、ジョニー。