7月11日

ぼくがやっていることを他人に紹介するときに、こいつこんなこだわりがあってめんどくさい奴やろーなんて言われるのは、どうもいけ好かない。それなら、こういうことがあって、その問題を必死になって考えていまこれをやっとるねんと言ってくれたほうが気持ちがいい。なんでそんな卑しいのだろうか。よくわからない。多くの人がやっていないからなのか、考えや知識や勉強や経験に基づいた行動(その場合、本人は確証がある)が少数派であるだけで間違いだと思ってしまっているからか、人と違うことをやったり言ったりすると仲間外れになってしまうと思っているからか。それ間違っている。人と違うことをやることの何が悪いのか。人と考えが違うのは当たり前だ。多数決で多いほうが常に正しいわけではない。ビジネスで価値があるのは、希少なものであって、多いものではない。今日のぼくは荒れています。

現代には赦しが欠けている。デジタルという言葉が世に浸透してしばらく経つ。デジタルとは0と1のことだ。世の中の全ての事象を0と1に変換して、画像に表し、音楽を流している。アナログからデジタルに変換するときに、0と1に変換できないものやその間にあるものは削がれて捨てられる。その捨てられた0と1以外のものが大切なのではないのか。暴れ倒していたスサノオは出雲で英雄になる。日本の歴史に現れる偉人は島流しにされたあと活躍する。千と千尋の神隠しのカオナシだって暴れたけれど許されるじゃないか。赦しのストーリーはあるのに、現代はいろんなことに過剰になっている。それは神話を読み解く能力を欠いているからであり、本を読まなくなったからであり、食べ物が精製されすぎているからなのだとおもっている。本には、0と1に置き換えられないものがある。読後感や、読書中の気づきなんてまさにそう。それを楽しみに読書を今日もする。