6月23日

試合で神戸へ。久しぶりに元チームメートと会い、ブラジル料理を食べて、帰宅の途につく。帰りの車内は、普段ぼくがここに書いているようなこと(もうすこしライトな言い回しで)をチームメートにべらべら1時間30分しゃべり倒した。みんな呆気にとられていた。普段なにをしているのか分からないからなおさらなのだろう。特に、日々の時間の過ごし方、現代に脈々と連なる歴史のこと。ほとんどのひとは大学受験以来何もしていないこと。

普段ここにその日のできごとを書いている。自分の書いたものを読みながら、自分の考えをまとめている。たまに誰かにいま何やってるのと聞かれたら、自分の頭にあるぐちゃぐちゃな考えをしゃべる。ときどき読む対談集が面白いのは、想定外のQを他者が投げかけるからといいうことに気がついた。普段は自分のQに答える。自問自答の外からの不意でトリッキーな切り返しからおもしろいなにかは生まれるのはそういうわけだ。(そのまえに自分の倉に知識や考えを蓄えとかなきゃなにもうまれない)

道中に戻る。いまは何をしてるの聞かれて、編集に興味があると言った。ひとは何をするのにも、編集をしている。今日の出来事を話すときでさえ編集をしている。もちろんカメラで撮った写真をフォルダにまとめるときも、音楽のプレイリストを作るときにも、歴史書を書き出すときも、人間のあらゆる活動に編集は関わっている、という事に気づいたとき、ぼくはなにかをはじめる前に、まずはその編集を学ぶべきだと思ったのだ。自分の編集方法を持っているひとは、分野が変わっても活躍している。じゃあそもそもそも編集って?

「そもそもすべての情報はなんらかのかたちに編集されています。法のかたち、スポーツ・ルールのかたち、音楽のかたち、テレビ・ニュースのかたち、学校教育のかたち、科学法則のかたち。われわれは編集世界というものの中で生きているのです。しかし、このような情報を、われわれにとって必要なものとするには、それなりの方法が獲得されなければなりません。このように、あれこれの情報がわれわれにとって必要な情報になることをふつうは知といいます。情報をそのような知にしていくことが編集なのです。」と『知の編集術』で正剛さん。

なぜ編集に興味を持ったのかというと、何をするのにも、意識的になることで、結果が変わってくると実感をここ数年得られ、その実感のベースに編集があると分かったから。坂口恭平が言うところの解像度を上げるということだ。

料理をするとき、食べたいものを作るのか、何を食べるのか、食べることによってどうするのか、誰と食べるのか、何を使うのかによって、出来上がる料理は変わる。それは料理だけではない。自分の関わるあらゆることにだ。生活や仕事、趣味なんか。いや、もっと細かく、睡眠や呼吸や食事の仕方やなんでもにだ。

あらゆることに編集が関わっていて、その編集が文化によって違うというのなら、日本的な編集を学べば、それがこれから何にでも使いまわせるに違いない。だからまず学ぶべきは編集なのだ。だれもやっていないことへの一点張りのようなものだ。