6月17日

何かを作るのにも、それを伝えるにも、共通の大事なものがあって、それが編集だと思う。編集は学ばなくてはわからないことがおおい。作るもののコンセプトや、それを現代にあてはめること、屋号のネーミングや、ロゴの作成にも、やることなすことすべてに編集がある。

 

わからない言葉をわかりやすく言い換えてくれることがいいことだとはおもわない。ある現象を言葉で説明するとしよう。そのとき、特定の言葉以外で説明できないのに、平易な言葉に置き換えたとき、置き換えによって消えてしまう言葉の意味やイメージの損失はかなり大きい。けれど、その言葉の意味をわかっていない側からすると、わかりやすく言ってくれないとわからないとなる。定食屋の客が自らお客様は神様だと言うようなものだ。これは考え方によって解決できるとおもっている。そもそもぼくもあいつ説明下手くそやねんとか、意味のわからない言葉をなに使っとんねんとおもっていたのだけど、多読をしはじめてあるとき気づいた。いい著書や著作は読者のレベルを引き上げる。これわからへんの?じゃあ修行してこい、と。そのことに気づいたとき、ぼくははっとした。

 

世の中の基本構造は、いまでも、いくら仲の良い友人であろうが家族であろうが、心の中にあることはわからないとうことだ。もっとヒトの気持ちを考えて、と言われたところで、ひとの気持ちを完璧に代弁できる世界にぼくたちは住んでいない。だから、言葉を使ってコミュニケーションをとる。思っていることを伝える。あるできごとを言葉にすることで、イメージを相手に伝える。その言葉の中には、その意味とイメージが含まれている。言葉の中に、日本語の中に飛び込むのが楽しいのは、イメージと文字が繋がっているから。表音文字サイコウ。

 

名前をつけることには、相当のパワーが込められてきた。起こったことや現象、木の種類や魚の名前にも、雨や風、地名や人名にも。それなのに、そのことを軽視なんてできやしない。

 

ひさしぶりに、谷崎潤一郎『陰翳礼讃』を読む。最後にこうしめられている。「私は、われ/\が既に失いつゝある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の檐のきを深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとは云わない、一軒ぐらいそう云う家があってもよかろう。まあどう云う工合になるか、試しに電燈を消してみることだ。 」