6月5日

山水画は、遠くからみる山、麓から見る山、山の中から見る山、山の生活からみる山、と同じ山をちがう角度から描いた。それがひとびとを山へ誘い、それが名所となった。 「山水画というものは、ズバリいうならここ(here)にいながらかなた(there)の山々を眺めるための絵画様式でした。山水画家たちも山に入った気分で絵を描くと言うようなことを考えている山水画をよく見ると、こちら側にいるレベルの山水画、山に向かおうとしているレベルの山水画、もう山に入っているということを想像して描いている山水画、山に住んで悠々自適の山水臥遊とよばれる三昧を送っている山水画の、だいたい四段階があることがわかります。」(松岡正剛『花鳥風月の科学』より)

 

ものとの距離感といえば、、宮本武蔵『五輪書』に大工のたとえがある。「家をたてるには木くばりをする。まっすぐ節もなく、見かけもよい材木は、表の柱とし、少しは節があって、まっすぐで強いのは裏の柱とし、多少は弱くても、節がなく美しいのを敷居、鴨居、戸、障子などにそれぞれ使い、節があてもゆがんでいても強い木は、その家の各強度を見分けよく吟味して、使用するならば、その家は長持ちするであろう。」普段その道のプロというが、その道にはそういった、あつかうものの性質をよく理解していることが第一にあり、それをうまく配置することが大事で、それを才能とよんでいた。五輪の書を読んで、宮本武蔵が実利主義なだけの剣豪だなんて到底思えない。そういえば法隆寺の宮大工の西岡さんが、『木に学べ』でも同じ事を言っていた。それに、本のタイトルも『木に学べ』だ!ホンモノだとおもうひとは、自分が扱うもののことに精通していること、自分の仕事を語るときにそのものの声を聞けと言う人だ。

 

『デザイン知』でアフォーダンスについて知り、千夜千冊の松尾芭蕉を通って、宮本武蔵『五輪書』を読む。順序は重要だ。本を読む順が大事なように、出会う順番や、訪れる順番が物語によって意識されて語られてきた。ぼくは、キエラン・イーガン『想像力を触発する教育』の「結論を言えば、人生に起きる出来事についてわれわれの感情はいつでも暫定的なものである。絶えず起きてくる新しい出来事が、過去の出来事に影響を及ぼし新しい解釈を与え、過去の出来事に関しての感情を変えていく。物語には終わりがあるので、物語によってのみわれわれは出来事に対してどのように感情を抱くべきかをはっきりと知る。この終わりの感覚が出来事に意味を与える」を読んで、唸った。