5月22日

「なんでこんなことせなあかんねん」という話をよく聞く。日常の挨拶、神社のこと、近所づきあい、集合や待ち合わせ、日本の風習や歴史、ルールでなく礼節。ぼくの親世代(60歳前後)は戦争を直接経験していないが、その親世代(80歳後半)は戦争を経験している。祖父母たちが育てた父母は、その影響をもろに受けているように感じる。本人たちが意識していなくとも。だから、宗教はいけないという。そのなにがいけないのかはわかっていない。仏教や神道やキリストやユダヤなど宗教への理解が欠如している。世界大きな歴史の流れを無視して、いまをスポットで見ていたらわかっていると思っていることが、間違いだということは多いし、その間違いにも気づかない。分子は分母によって変わるのだ。(寒いと言ったとする。夏に寒いというのと、冬に寒いというのとでは違う。)日本人である我々の考えのカタチや、家の作りや自然観が、仏教や古神道や道教に影響を受けているなんて思いもしていない。これらって、宗教ですよね?そもそも宗教がなぜ生まれたのか(3つの脳のはなし)、仏教や神道とは何か、なぜ太平洋戦争が起こったのか、日本人とは何か、われわれに合った食事とは、日本語のおもしろさに気づけば、日常はすごく面白い。

 

僕たち世代になると、祖父母の経験した戦争の強烈な影響はほとんどなくなる。日本を見るときに、偏りが少なくなっている。ジョン・レノンはとっくに銃で撃たれたのに、はじめてビートルズを聴いたとき、新鮮に聞こえるような感覚に近い。

 

いい夢を見た時代には、困ったらだれかが助けてくれるとおもう。だから、国民皆保険や年金制度が破綻するとしたらどうすると父に問うと、そのときは国がなんとかしてくれると言った。最近の国の動向を見ると、明らかにいまは時代の変わり目のようなのに。誰かが助けてくれると思っていると、政治が悪いとか世間が悪いとか文句はいうけれど、自分の身に危険が迫っていると認識していないので、何も変える必要がないという。どの機関もなにもやってくれない。そんなことはわかっているはずなのに。

 

ぼくはそれは違うと思っている。 いい夢を知らない(そのかわり困ってもいない)僕は、そうなるとわかっていたら、いまのうちにできることを、やればいいだけだとおもっている。そのできることは誰も教えてくれない。だから考えなければいけない。「考える」というのは、疑問を持って、試してみることだ。疑問を持つだけではない。

 

よく考えた結果を質問したり、疑問に思ったことを聞いてみると、そんなことはどうだっていいんだとか、それならぜんぶやれへんだらよかったやんとか、一気に沸騰して怒るひとに会うとここからさきはもう直接言えなくなる。「考えない人には考えた結果を教えてもたいていうまくいかないのだ」といま読み返している坂口恭平『独立国家のつくりかた』にあった。