3月21日

雨。松岡正剛『匠の流儀』を一気呵成に読み終える。歴史を縦横無尽に並べて、そのときに複数のOSはどう動いていたのかを確かめてみること、日本という方法を分類しイメージを捉えたあと、並び替えてみること。このふたつを試してみよう。

 

夜。『ブレードランナー2049』を見る。フィリップ・K・ディック『電気羊はアンドロイドの夢を見るか』原作の『ブレードランナー』の続編。冒頭、「おまえは奇跡を見たことがないから、そんなことができるんだ」と、脱走した旧型レプリカントは殺される直前にそういった。そうだよな。奇跡が起こることを体験しないと、奇跡が起こることなんて信じないよな。奇跡が起こることを、神話は伝えているのだよな。と、ジョゼフ・キャンベルのことを思い出す。

 

いまはサーバーに記録がどんどん蓄積されている。中国から漢字を借りて、万葉仮名として独自に使い始めるまで、日本人は文字を持っていなかった。それまでは、記憶とはひとであった。もちろん、器や石碑や洞窟の絵や文様もあったがそれでは情報量が少なすぎる。だから、ひとは物語を生んだ。物語の情報量は圧倒的に多かった。その物語を語るのが語り部。古事記の稗田阿礼。ぼくたちはものに記憶を保存することができる。座布団があってすこしそこが凹んでいて暖かかったらそこにだれかがいたことを感知できる。

 

記憶を、ものや踊りや仕草や言葉遣いやリズムや順序に保存する。それは使っている本人にはわからない。そう伝えられていることを、そうやっている。そこには、語り部が語ったことを、翻訳するひとが必要になる。それが解き部。ひとは文化を記憶する装置だったのだ。ぼくたちは遺伝子という生命情報だけでなく、文化や物語の遺伝子を持っている。それをミームという。再生方法がわからないから、そんなのどうでもいいとおもうのかもしれない。奇跡をみたひとにしか、奇跡はわからないように。奇跡を語らなくちゃね。

 

大停電が起こって、サーバーに保存した記録が消失したとしても、ひとのなかにはまだ記憶が残っている。デジタルにバックアップするとともに、アナログとして自分自身にも記憶を保持する。資産は分散すべきなのだろう。ブレードランナー2049よい!