3月20日

見立てが非常に大事だとおもう。ポテトチップを食べて最後に残ったポテトチップの破片も、手についたうすしおもポテトチップのうち。おもいでもそうなのかもしれないきれいなことしか残さないように、よくうつっているものを厳選してアップロードしても、そこから、手についたポテトチップのうすしおのような記憶は蘇ってくる。

 

現実に生きながら、理想を頭に掲げて過ごしているけれど、理想と現実がかけ離れているのは、その間にある、前歯についたポテトチップののりしおのような、現実と理想の関係を無視してきたからなのじゃないか。無視してきたというより、無視するように気付かせないような、アルゴリズムや轍が用意されていて、気づかぬ間にその筋を通っていたのではないだろうか。デジカメで撮った写真をサーバーにアップロードして、フォルダに仕分けしても写真とぼくの関係はフォルダに入っていない。けれど、その写真を見ると思い出がふつふつと沸きあがってくるのは、その関係が僕自身には保存されてあって、写真を見たときにその思い出を思い出すようになっている。ということは、写真や匂いや場所はきっかけであり、フラグなのだとおもう。

 

パンパンに空気の入った袋に詰められた、薄切りのジャガイモだけがポテトチップじゃない。パックに入ったタバコがタバコじゃない。しけて火のつかないのも、溝口に流れて捨てられたのも、仕事終わりの一本もタバコだ。ぼくは吸わないけど。モータウンのジェイムズ・ジェマーソンのベースライン(マーヴィン・ゲイとか)が心地よいのは、シンコベーションという楽譜には載っていないズレがグルーヴを作っている。

 

夜、松岡正剛『匠の流儀』を読む。本を読んでいると、この文章に出逢うために、今まで本を読んでいたんだと思える瞬間がある。それを噛みしめた一日であった。そして、オーサーリンク。本はつながっているから、次に読みたい本が見つかった。