3月11日

JFLの試合を見に行く。キックオフ前に、黙祷を捧げる。きょうは東北地震が起きてから7年がたつ3月11日。振り返ってみるとその日以来、ぼくのなにかが変わったようにおもう。きっかけは自分の力ではどうしょうない自然の力を目の当たりにしたからなのか、国家のアイデンティティが失われているのかはわからないが、そのなにかとは、坂口恭平さんのいう解像度があがったというようなことだとおもう。解像度をたとえるなら、HDの映像と、4Kの映像の違い。仕様でいうと解像度が4倍違う。といっても、よくわからない。実際に映像を見るとその質感が全く違うことがわかる。

 

生活を大枠として捉えると、やっていることは以前とほとんど変わらない。寝たり、食べたり、話したり、遊んだり、働いたり、たまに旅に出たり。たとえばスマホのカメラで撮る若者も、一眼レフのプロのカメラマンもやっていることは大枠では同じだ。被写体にレンズを向け、シャッターをきっている。いまやテクノロジーの進化でカメラが安価になったため、プロと一般人が使うカメラは同じになった。たとえば、ミラーレスならSonyのα7シリーズ(ぼくも狙っている)。ということは、プロの撮影と素人の撮影の違いは何だろうか。写真には、写真に写らないものが大事だというけれど。

 

たとえば、パソコン。今やほとんどの人がパソコンを使う。起動する、データをHDDに保存する、インターネットに繋いでブラウザを使って調べ物をする、メールする、キーボードで文章を書く、なんて、誰にだってできる。アーティストが使っているパソコンはMBPで、日本人の若者もだいたいMBPかMPを使っている。同じパソコンを使っている一方で、違うのは、使い方だ。エクセルやパワポを使う人もいれば、ネットサーフィンとして使う人も、adobe premiereやAbletonなどを使って創造する人もいる。なにが使い方を分けるのか。

 

林業もそうだ。木を切る。木を植える。木を育てる。木を市場に運ぶ。やっていることはだいたいどこも同じだとおもう。違うのは、その過程や育てる樹種や構想や考えだ。その先には、どうしたいのかといった目的がある。で、パソコンのキーボードを打つ速さと同じように、技術的なこと、たとえば、木を切るなんかは、経験年数が増えればある程度誰だって切れるようになる。だから、大切なのは目的だ。なぜ木を育てるのか。電気がなくなるxデーのために燃料となる木を代替エネルギーとして育てるのか、数十年前のひとが日本のあらゆる山に植えた木の面倒を見れなくなった面倒を見るのか、それとも別のなにかか。目標でなく、目的にひとは集まる。ハードウェアは実は似ているけれど、そのハードに走っているソフトウェア(考え方)は、全く違う。

 

さて、ぼくはというと、寝たり、食べたり、話したり、遊んだり、働いたり、たまに旅に出たり、という大枠はそのままでも、その枠の中身は大きく変わった。

 

なにを食べてなにを食べないのか、なぜそれを食べるのか、睡眠の質はどうか、話す内容、自由な時間の使い方、旅する先。ディテールには、背景や思いや目的のようなソフトウェアが先行して走っている。食べもののことを考えるのは、健康でありたいからで、なぜ健康でありたいのかというと、健康でないと楽しくないから。健康であるから(未病であるから)、生活は楽しいし、旅行に行っても風邪では楽しくない。7年前のできごと以来変わったのは、解像度であり、世界を見る目だとおもう。食べものも、寝ることも、働くことも、本を読むことも、時間の使い方も。

 

RIP