3月10日

高校の情報の授業で学生20人に映像を作ってもらうとしよう。はじめて、パソコンで映像をつくる。ここではadobe premiereを使う。みなはじめて使うから使い方はわからない。だから先生(使い方を知っている)がサポートする。(いまならYoutubeをみながら自分でやればいいけれど、まあ仮定の話なので)(技術的なところは使っていくうちにうまくなるだろうから、ここでは一旦端に置いておく)先生はレジュメを配る。ほとんどの生徒は配られたレジュメ通りに作る。だいたいはレジュメに似た映像が出来上がる。が、ときに、おっという映像が出て来る。その場合の映像は、その学生が編集方法を持っているからに違いない。

 

そのときに、パソコン(デジタル機器)を使えるというのは前提条件になる。その上で、じゃあどう編集するのか、それで何を作るのかを、考えていかなければとおもう。世界は停滞して飽和しているからなのか、国家のアイデンティティの変わり目にあるからなのかは、世界の潮流が変わったのか、はたまた自分は何がしたいのかわからないからなのか理由はわからないけれど、これだけは言えるのは、テクノロジーを使う前には、自分が何をしたいのかを知っていなくちゃならない。自分はなにがわからなくて、なにがしたいんだろう、ということがわかっているのかどうか。

 

パソコンが普及したいま、キーボードを打つ速さに意味はない。パソコンを使うことより、それを使って生み出すことのほうが大切だ。発明されてすぐの頃はそれ自体を使えるかどうかの方に目がいく。キーボードの早打ち検定が流行る。けれど、それ自体だ大切なわけではない。しばらくすると状況は変わる。それを使って何をするかのほうが大事なのだ。そのためには、編集が欠かせない、見立てが欠かせない。その見方は、土着のものの方が面白い。というより、そのひとらしさというのは、そのひとが育ってきた環境にある。日本という方法はおもしろいと最近まったくそうおもっている。

 

たとえば、建築家が音楽を作るとする。やっぱり土台が重要だとおもって、音楽の場合の、土台は何かを考える。低音だなとおもったら、低重心な音楽を見立てる、地震に強い音楽、石の上に柱が乗っているだけの音楽だったりする。その基礎の上に、南向きに生えている木を家の南側の柱として使ったり、杉や檜のようなまっすぐな針葉樹の柱を使ったり、家の外壁の雨がよく当たる箇所に焼杉を使ったりするように、音楽を建築に見立て、リズムや楽器を材料に見立てることによって、日本家屋のような音楽を作っていく。

 

そう考えると、見立てとは、編集方法であって、見立てにはジャンルは関係ない。見立は、あらゆるものを縦横無尽に通う。ちょうど北野武が映画を、著書を、お笑いを編集しているように。ぼくは編集方法にいま興味津々だ。だから日本の文化の方法を探っている。ぼくはそもそも方法に魅力を感じていたのだと最近気づいた。そうそう、Miho Musiumの春の展示が能なので、これはぜひ行きたい。