3月1日

3月です。スーパーカー「YUMEGIWA last boy」を聞く。「YUMEGIWA last boy 感じたい無限」が、「感じたい語源」に聞こえた。「感じたい語源」もなかなかいいとおもった。表音文字から表意文字にget backすると、いろいろ見えて来るものがある。そこに語源を感じる。

 

車の運転中に仕事に持っていっているトートバッグの中から、手探りで、ペットボトルのお茶を取り出そうとした。記憶は先行しているのか。手はものを覚えているのか。ペットボトルを取ろうとしたとき、もうペットボトルの形状、材質、重さが情報としてすでにわかっている状態でないとペットボトルは取り出せない。記憶の整理とはそのようなのだろうか。整理の仕方は文化で違うのだろうか。恣意的に何かを取り出そうとするときに、は、それが必要なのだろうか。

 

ということは、驚きを与えるときには、ペットボトルを出してと言われて(ペットボトルを知っていることを前提として)、ペットボトルの形状、材質、重さなのに、ペットボトルじゃないものを手探りで取らせたらいいのだろう。驚きとは、そういうものの相似型なのだとおもう。あるいはペットボトルってなにっていう全く未知なものを与えること。ぼくは前者が好みだ。