2月10日

石牟礼道子さんがお亡くなりになった。といいつつも、ぼくは石牟礼道子さんのことをほとんど知らない。知っているのは名前だけだった。以前、坂口恭平さんのことが気になっていたときに購入したユリイカ「坂口恭平」特集でその名前を見かけた。そのユリイカの冒頭に坂口さんと石牟礼さんとの対談があった。さいしょに、石牟礼道子という名前を見たときに、なんと読めばいいのか考えた。ぱっとみてすぐになんて読むか考える名前をぼくは忘れられない。それで彼女のことを覚えていた。

 

仕事が終わって、スマホを見ていたら、彼女の訃報が流れた。石牟礼道子という名前をぼくは覚えていた。仕事を終えて家に帰って、そのユリイカを読む。対談は、文章という音について。坂口さんが石牟礼さんの『あやとり記』を読んでいるうちに、その文章を歌っていたそうだ。

 

印刷機が発明される以前、ひとは本を読むとき、声を出してしか読めなかったそうだ。音読しかできなかった。ということは、ひとは黙読ができなかった。それからグーテンベルクの活版印刷を経て、黙読の時代になるという。文字と音は振動を通して、体で繋がっている。息を吐きながらでないとぼくたちは声を出すことができないように、音を発するということには、呼吸と振動のとても重要な関係にある。

 

昨日届いた鎌田東二『超訳 古事記』を読みはじめると、「しゅうう」や「ふぅう」と風の音が書かれている。折口信夫『死者の書』には「した した した 」と水の垂れる音がある。本を読みながら、そこに、風の音を感じ、水が地面に落ちる音を感じる。文章は楽譜であって、歌でもある。本は、文字が紙の上に乗ったものがまとまったものだけど、文字には音も色も匂いも記憶も時間も全部ひっついてくる。「しゅうう」や「ふぅう」と聞くだけで、そこに風が吹いていなくても風を感じることができる。

 

司馬遼太郎『この国のかたち』に「神々は論じない、アイヌの信仰がそうであるように、山も川も滝も海もそれぞれ神である以上は、山は山の、川は川の本性として –神ながらに –生きているだけのことである。くりかえすが、川や山が、仏教や儒教のように、論をなすことはない」とある。

 

今日は雪じゃなく、冷たい雨が降った。今日の夜はゆっくりな時間が流れている。