2月7日

興味や好奇心がどう行動に移るのか。最初はないもないところからはじまる。それとも、そこら中に興味あることが漂っている。それらをひとつひとつ拾っていくと、集まりはじめて、ドーナッツみたいな形になる(このときドーナッツみたいになっていることには気づいていない)。どんどん興味を拾い集めていくうちにドーナッツになって、その中心の空っぽな部分に、なにかがあることにふと気づく。あるとき、空っぽの真ん中にあらわれたものが、大事なことなのだと悟る。なんかそんな感じ。正解とか正しさとか、そんなのとは違うし、科学的根拠とかそんなのともちがう。まわりからかためる。

 

朝7時に家を出たら、太陽の燈のやわらかい光がさす。ぼくはああ寒いけど春に向かっていっているなと感じるが、その感じを言葉では言い表せない。そういうことは多々ある。雪の森の中をひとりで歩いていると、周りの音が全く聞こえなくなるとき、桜が散った4月末ごろの暖かい風と冷たい風が混ざった雨上がりの夜の匂い。この感覚って、なんなんだろうか。この言葉では言い表せない感覚と似た様なものを感じ取れるとおもったのが、古事記だった。昨日に引き続き『現代思想 古事記』を読む。天の岩戸に隠れているときに、そとの様子が楽しそうだからって、覗き見した最高神のアマテラス、そのときに踊り狂っていたアメノウズメがストリップの元祖で、ひたすら暴れ狂ってうんこを撒き散らし、馬の皮をはいだかとおもいきや、出雲に降り立って大活躍するスサノオの二面性。そして、ぼくの興味は折口信夫『死者の書』だ。ぼくのドーナッツの真ん中にいまある。歴史に立ち返る向きがあるのは、弱体し続ける国家としてのアイデンティティを、不安がゆえに欲しているからなのだろうか。

 

といいつつも、実のところはまだ古事記を読みきっていない。古事記の話をする友人の話を聞いたり、別の本に古事記のできごとが出てくるのをかいつまんでいたに過ぎない。そんなことをしているうちに、またべつのドーナッツはできあがったようだ。amazonで鎌田東二『超訳』を買った。

 

A Whiter Shade of Pale / Procol Harum