2月4日

立春です。春が立つ。春の訪れ。おとずれ。オトヅレ。音連れ。冬に蕾に力を蓄えた花は、春にいっせいに咲き乱れる。計画を立てるのも、行動を起こすのも、旅に出るのも、種を植えるのも、木を切るのも、なにごとにもタイミングがある。大事なのはそのタイミングで、それは古い暦が教えてくれる。立ち返る場所は、歴史にある。

 

買い出しの日。大津の米プラザで、高島のササニシキの玄米を買う。そこから、大原を超えて、京都の左京区へ。京都の中心は中京の四条上がる、河原町と烏丸の間、なのだろうけど、ぼくのなかでずっと注目しているのは左京区だし、最近は河原町今出川付近だ。左京区のhelpで食材や調味料を仕入れ、恵文社に立ち寄る。

 

年明けの安曇野で田淵行男記念館でみつけた石川直樹さんの言葉は、『ぼくの道具』のはじめにに書かれていたものだと知る。「スノーモービルはこわれたらおしまいだろ、いぬぞりのほうが信頼できる」

 

それから、立ち読んでいると、やはり古事記や歴史の話がどうしても出てくる。古事記のことや日本の歴史観(ぼくもいまはそれを知ろうと思っている最中だから、おおごとではいえないけれど、なんていったらいいのだろうか、宣長が解き明かそうとした漢意や大和心だったり、アマテラスやスサノオの荒魂や和魂だったり。)を分かっていると、少しわかっていると、なにもわかっていないじゃ、理解が変わると、いろいろな本にちょっかいを出しているときにそう感じる。いままでにこの感じは味わったことがなかった。この数ヶ月ずっと正剛さんを読んでいたおかげでそういうことを、ぼくは少しわかるようになった気がする。これはいい発見だ。外国を旅するときに、少しでも英語をしゃべれるのとそうでないとでは旅が全くちがうように、サッカーを見るときにオフサイドを知っているのと知らないのとでは面白さがちがう。

 

建築の棚にあった、『磯崎新と藤森照信の「にわ」建築談議』は、国見のはなしからはじまる。国を見る。山に登って、そのクニを見下ろした。ここは住みやすいのかと。この話を読んだとき、宮本常一の民俗学の旅ではじめての土地に行ったら、一番高いところに登って見渡すといったこと、アズミ一族が愛知の渥美半島から天竜川をのぼって安曇野へ行きその麓と上高地と山の頂上を祀ったということが頭をよぎった。

 

松岡正剛は一旦やめだとおもっていたのに、本棚に松岡正剛の文字があると手が出てしまった。『擬』だった。目次を読み、あとがきへ進む。あとがきから読む読者を想定していたようなあとがきを読んで、本をそっと棚に戻す。串田孫一『考えることについて』を買う。家に帰って、『擬』をamazonのほしいものリストに、そっと入れる。

 

夜に、もののけ姫を久しぶりに見る。古事記は大和が描いたストーリーで、もののけ姫は出雲側の視点で話がすすむ。冒頭の「山がおかしい」という言葉にどきっとする。