1月5日

8時30分に目が覚める。昨日ネイボで買った松岡正剛『花鳥風月の化学』を15分読む。そこには偶然、安曇野のこと、山岳信仰のことが書かれてある。「われわれは心のどこかに山にたいするなんらかの強い畏怖というものを抱えています」とはじまる。頭と体があたたまったから、車で安曇野をぶらり。

 

石川直樹さんの展示を目当てに、田淵行男記念館に出向く。石川直樹さんの写真展「POLAR」にて、やっと作品に出会えた。昨年の能登では行き違いだった。

 

記念館の田淵さんの撮った写真から、安曇野の匂いや季節をはっきりと感じることができる。ほとんどの写真はモノクロで、背景には北アルプスが写り込んでくる。そうそう、安曇野をドライブしているとどうしても山を意識せずにはいられない。

 

石川さんの展示は階下の小さなスペースにあった。グリーンランドやシュシュマレフの写真に、キャプションが添えられている。世にはいろんなメディアがたくさんある中で、用途によって使い分けているわけだけで、その中で、ぼくはやっぱり紙(写真)と文字が好きだ。写真を見て感じることに加えて、そこに添えられている言葉は、写真の背景を映し出す。味噌汁にはダシがやっぱりほしい。ダシの魅力を語れるようなひとでありたい。

 

そこには、石川さんの旅の手帳が置いてあった。罫線入りのちいさなノートに、小さな字でびっちりと文字が埋まっていた。そこに、ある日の食事のことが書かれていて、旅の途中で「チーズがあったのを思い出したけれど、取り出すのがめんどくさいからやめた」とあった。

 

その横の光が差し込む小さな部屋に、田淵さんの『山の意匠』があった。黒いバックグラウンドに、写真とキャプション。これこれこれ!たまりません。昨日帰宅予定だったが、変更してよかった。きょうはじめて田淵行男さんを知った。行くまで知らなかった田淵行男さんが好きになった。安曇野も。

 

田淵行男記念館を後にして、横の道の駅のようなところで、湧き水が出ていた湧き水好きとしては汲まないわけにはいかない。そしたら、地元のひとに声をかられる。「ペットボトル1本やったら先に汲み」「ありがとうございます」「どこからきたの」「滋賀です」「琵琶湖」「そうです」またかとおもった。「安曇野ってめっちゃいいですね」「そやろ」自分の住んでいる町をはっきり「いい」って言えるのがすごくいいなと思った。田淵さんが安曇野を愛したように、安曇野に住むひとたちも安曇野を愛しているのだろう。

 

安曇野をぶらぶらしながら、安曇野がなんでいいのか考える。ひとつは木が生活に近いからだとおもう。新築の家はツーバイフォーで建てられていたけれど、煙突が当然のように屋根にはあった。どの家にも薪がきれいにならべられているし、火を生むための木は近くに植えている。だいたいはアカマツやナラ。こちらわたしの住んでいる場所では、ほとんどは杉や檜で、ほとんどは少し前の時代に高く売れていたから植えたもので、いまでは高く売れないから放ったらかしな状態。仮に、売れたとしても、どこのだれが使っているかはわからない。え、別に、そんなのどうでもいいじゃんとおもうかもしれないけれど、ぼくはそうじゃないとおもう。だかた、近所の道の近くにあるヒノキや杉をすこしづつナラや赤松にして、エネルギー資源として、誰が育てて誰が使っているのかをわかるようにしたい。これ大事。だって、こういうところからストーリーってうまれるのだから。 

 

そうそう、石川さんの展示で、グリーンランドの犬ぞりの話が添えられていた。グリーンランドではその写真を撮った当時、いまから数年前でも、犬ぞりを使っているそうだ。一見すると、時代遅れだとおもったり、極地だからしかたないなとおもうかもしれないが、そうではない。それは、極地で生活するのに、あらゆる状況から判断して、いちばん有用なものがスノーモービルより、犬ぞりだという単純明快な理由だという。そのキャプションにはこう書かれていた。「機械は壊れたら動かない」