11月19日

数年ぶりにあった知人に最初、気づかれなかった。それは風貌からだったのだけど、それから、僕が喋っている声を聞いて、思い出したみたいだ。記憶は、視覚より聴覚や嗅覚のほうが頼りになるのだろう。目は騙されたとしても、音や匂いは記憶にべったりとひっついていて、ひとの記憶を蘇らせる。

 

少し前にも書いたけど、松岡正剛+ドミニク・チェン『謎床』には、「そもそも寄物陳思は物(オブジェクト)に関心をもって注意のカーソルがそこへ向かうということに始まります。しかし、その『物』は辞書的に見えているだけではない。心や思いでも見ているので、『散りかけた桜』は『別れた人』に、『雨の屋根瓦』は『昔日の寺』にもなりえます。」とある。

 

ぼくは、心象風景という言葉が好きだ。それは心に刻まれている風景といったもので、その風景は、匂いや音楽付きの写真のようなものだ。それは、懐かしい場所でも感じるのだけど、日常生活において匂いや音楽がトリガーとなることがある。結局なにが言いたいかというと、その匂いや音楽のついている記憶はひとりひとりのものだから大切にしなければいけないということ。そして、その記憶のほとんどは多感な時期のものなのだろうから、いますぐにでも、やろうかなとおもっていることをやらなければいけないなとおもった。Life is very short to do all you want to do.