10月25日

本を読んでいると、「なんで本なんか読んでいるの」と聞かれることがある。はてには「本に書いてあることが事実だとも限らないでしょ」と言われる。そういわれるともっともな気がしなくもないが、おそらくそのひとは勘違いしている。そもそも、事実かどうかを知るために本を読んでいるわけではない。「じゃあなんで読んでいるの」と聞き返される。

 

まずひとつは、世界はひとつなのだろうけど、見方や真実は多角的だということ。日本最初の書物(いろいろ諸説はあるとして)の日本書紀と古事記の内容は似ているが、書いているひとの見方が違うから内容が少し違う。世界の見方にはいろいろあることに気づき、当たり前を疑えるし、行動を変えられる、みなと違う方向にさえ歩ける。結果的には、行動に基づいた私見が得られる。食後すぐの歯磨きは正しいのですか、フッ素入りの歯磨き粉は、テフロン加工のフライパンを強火で使うのですか、食事の仕方はどうですか、野菜の栄養価が戦後の1/6になったのですか、日本人と欧米人とで腸の長さが違うことと食べ物の関係はどうですか、肉はパックに入れられているものですか、昭和に何が起こったのですか、江戸幕府が鎖国したのはなぜですか、ユダヤの神を知っていますか、仏教はどの国から発生したのですか、侘び寂びってなんですか、日本に文字ができたのはいつですか。

 

それから、賢者は歴史に学ぶとよくいう。歴史を学ぶというのは、学校のテストよろしく、何年に何が起こったかを正確に回答することではない。あるできごとが起こった背景や、それを行なったひとがなんのためにそれを行なったかを知ることにある。それは荒ぶる世界の抑制のためであり、答えのない世界を生きていくための地図でもあり、その土地に生まれたひとのアイデンティティを知るパンドラの箱なのだろう。たとえば、「日本の人口は1億2686万人で、国土は、377,972.28㎡」というより、「イザナミを追って黄泉に行ったイザナギが、荒れ果てたイザナミの姿を見て驚き、現世に帰ってきた。そのことを黄泉がえりといって、そのあとイザナギの禊によって、アマテラス、スサノオ、ツクヨミが生まれ、日本が動き出した」という日本の話の方がおもしろいし、そこには日本的な方法論が隠れている。その方法を違う分野にもちいることを、ぼくはいま考えているから、その方法を知るために読書をしている。

 

それから、家の近所にいない到底敵わないひとや、もうすでに亡くなられた偉人に格安で出会えること。センスは磨くことができるが、自分自身で磨くのは難しい。センスはひとから磨くことができる。よき師匠を持つことが大切だとぼくはおもう。本の著者を勝手に師匠にすることだってできる。

 

考えたらきりがないからここでやめにしよう。いまはたいていの本が容易に手に入る。大量にネット倉庫に眠っている。次の日には家に届く。ぼくにとっては幸だけど、このことが幸か不幸か、自分が欲しいものがわかっていなくては、欲しいものは手に入らない。そんな時代にぼくたちは生きている。雨が続くから本当にずっと本を読んでいるけれど、読めば読むほど、「書物をなめてはいけない」というのがよくわかる。

 

Instant crush / Daft Punk feat. Julian Casablancas