9月18日

台風が過ぎていった。吉野裕子「陰陽五行と日本の民俗」を読み終わる。最後の最後に、「古代日本人が十月を神無月とよんだ背景には『無』に対する認識がある。この認識から二つの重要な彼らの認識が知り得られる。①『有』の前提となるものは『無』。従ってその『無』の確認、『無』の具体化、が必至となる。②『無』の確認、その具現化は、『祭り』を媒体とした『時処の一致』によって可能」とあり、それを読んでじわっと感動している。

 

日本人にとって、無や空は、大切なもの。「なにもないところからなにかがうまれる」「めにはみえないけどでなにかがうごいている」という感覚は地下水脈のように、ぼくたちの外部記憶装置に記憶されている。ひとは想像力を使って、ものに記憶を放り込む。ただいまの世界は、わかりやすいものや過剰な説明が、目の前に横たわっている。けれど、ぼくたちが注視するべきなのは、わかりやすく目の引くものではなく、それを生かす空白にこそある。枯山水で水を抜いたように。そして、その感覚をこそ蘇らせるのは、月のカレンダーであり、星の動きであり、季節の移ろいであるのだとおもう。なぜって、怪しいとおもわれている陰陽五行も自然の移り変わりから考えられたものだから。知らないから、怪しいとおもうのは世の常なのだろう。これはパンドラの箱でもなんでもない。だって、ぼくたちには正月も干支も桃太郎も土用も東京も山の神も節分もひな祭りもあるのだから。ぼくたちの使っている時間や方位には動物が住んでいる。

 

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