7月26日

ジョニ・ミッチェルのドンファンのじゃじゃ馬娘(Don Juan's Reckless daughter)を聴く。今日はひたすら草を刈る。体は草を刈りながら、頭は別のことを考える。

 

ぼくの好きな映画のひとつが、タランティーノのパルプ・フィクションだ。人生は、パルプ・フィクションの最初のシーンのように、たまたま入ったレストランで、強盗に出会うようなものなのだとおもう、草を刈りながら。

 

それから、童謡といえば、子ども向けの歌だけど、あれっ?とおもうことがある。シャボン玉やカナリヤなんかがそうで、よく歌詞を見てもらいたい。たとえば、シャボン玉。「シャボン玉飛んだ  屋根まで飛んだ 屋根まで飛んで こわれて消えた 風 風 吹くな シャボン玉飛ばそ」なのだ。2番なんて、飛ばずに消えるのだから。ということは、作者は子どもに、なにか伝えなきゃいけないことを、歌いやすいメロディに乗せて、体にじわーっと染み込ませるように、伝えようとしたのだろう。それが「無常」だということを松岡正剛さんは言っている。「常ならん」ということを。

 

そのようなことが、最近、とてもきになっている。これがおもしろい。ぼくがいまおもうのは、最近では、目に見えぬものを信じられないひとが多いということだ。こんなふうにいうと、変に聞こえる。けれど、そうなのですよ。ジョゼフ・キャンベル「神話の力」を読まれたし。

 

雲が風に吹かれて立ち上がるから夏を感じ、虫の鳴き方で季節がぐるぐる回っていることを知り、田舎の旧家の間取りや建っている土地からものすごい知恵が垣間見えたりする。目を凝らさないと見えないけど。

 

童謡シャボン玉や、夏の雲や、影向や、パルプフィクションや、伊勢神宮や、そば猪口の寸法や、いろいろなものは、目に見えぬものを知るためのメディアなのだ。