6月30日

吉野源三郎「君たちはどう生きるか」を手にとってしまったらおしまいだ。友人にあげたり、失ったりして、かれこれ5冊目くらいになる。コペル君の立場に立ち、おじさんの言葉に感嘆し、おじさんと同年になったいま再び読み返す。

 

世の中は不思議だ。本を読むひとは読書がいいという。本を読まないひとは本なんて、読んでも同じだという。実際は、本を読めば読むほど、いい本を見つけることができると実感している。さらに年々多読になっている。どうやら世界は二極化を目指しているらしい。どちらがいいかを選ぶのは自分自身だ。ただ動けば動くほど、転がれば転がるほど、雪だるまは大きくなるのは、真実なのかもしれない。読書に限らず。

 

6月が終わる、雨は続く、雨を得た紫陽花は元気を取り戻す。天候や、咲く花とその咲き方、風の向きとその重さ、太陽の角度、虫の音、雲の高さや峠の雲で、季節を感じ取る。

日常でそう感じるのは、ぼくたちがそれを日本語で考えているからだ。日本語の成り立ちを考えると、ぼくたちが季節に感じることは言葉によって、感性を騒がせられている。日本語には本来、日本の四季の移ろいを感じ取るための語感が含まれていようとは。だから言の葉は大切だし、忘れちゃならないと、強くおもう。本日もジメジメしています。