5月25日

片岡義男「日本語の外へ」を読む。600ページ超えの分厚い本なので、栗の皮をひとつひとつ向いて食べるように読む。本日は長めの参照です。

 

「動詞とは、アクションだ。アクションといってもただやみくもな行動ではなく、因果関係における因だ。因は理念と言ってもいい。理念にもとづく行動の上に、果という結果つまり責任が成立する。」

 

「言葉を発するたびに、自分を少なくとも半分は消してしまわなければならない言語生活は、自分など結局のところたいしたことはないのだという認識のしかたを、そしてそこから必然的に発するはずの、自分の利害には敏感でありながら自分というものの根源的な意味は大事にしない態度を、生み出しはしないだろうか。自分を中心に、その周囲にある日常生活の全域を大切にせず、その価値も本気では認めないことを土台にした生活のスタイルが、いつのまにか身につくことになりはしないか。」

 

「自分の現在がそこそこなた、それ以外はどうでもいい。本当はひどい状況なのに、つらい生活なのに、目先の損得勘定に不満がないかぎりすべてさほど気にならず、少しでもいいからなにかを肯定的に変えていこうという気持ちも起らないという生活スタイルが、母国語によってひとりひとりの身につききっているなら、社会ぜんたいもその程度にとどまらざるを得ないだろう。」

 

文化は人が言葉で作っていく。言葉の程度が低いなら、程度の低い文化しか生まれない。人間というものに関するさまざまな理解が深まらない。多くの異なった人たちの存在を認めるという、スタートの部分すら出来てはいかない。可能なのは、せいぜいが現状維持ではないか。生活のスタイルも内容も、幼稚なままにとどまる。そのときどきのもっともわかりやすいものだけを相手に、目先の損得の追求と享楽へと、日々は浪費されていく。」

 

文章を記入するのはやっぱりフリッカー入力より、QWERTYキー入力。5月の雨上がりの夜に窓を開けたなら、すこし風が冷たいから生地のしっかりしたセントジェームズの縞の長袖シャツ。本日は読書日和なり。That's why I try to learn what japanese is.