3月16日

60年から70年生の木を切った。手塩にかけて大切に育てられた木だった。枝打ちよし、色よし、木目よし。それを切り捨て間伐した。残念で仕方がないと、一本一本の木を切るまえに、毎回おもった。脈々と続く技術やその応用は大切だ。それ以上に価値観を現代性に合わせることが大事だ。なぜなら、いままでのままだと、大切なものが捨てられることになるから。需要はあるし、価値もある。あるというのは、ゼロよりも少しあるだけで、その価値を最大化することをさぼっているのだ。手入れの行き届いた山は、気持ちいい。失われつつあるもの、誰も見向きもしないからこそ、僕はそこ一泪の望みがあるとおもうのだ。だれとも目的の違う場所にいち早く歩き出せるのなら、ぶらぶら好きなように歩いていける。

 

都会に失われた機能、田舎で忘れられたことを、ほじくりかえしていきたい。フェンスに囲まれ、ブランコや滑り台などの遊具のある機能のない公園から、はっきりとした堺も、遊具もない一見したらただの広い空間のような機能のある公園を、つくりたいとおもった。広い空間にはひとの想像力を喚起させるなにかがあるようにおもう。かつて、人が暗い洞窟の奥にわざわざ絵を描いたようななにかが。教育においてすべきことは、悪いものから守ることと、想像力を喚起させることだとおもう。それには、広い場所、正しい食事、自然の力、現代性が、大事になるとおもっている。