9月17日

台風が来ている。仕事は休み。昨日は0時過ぎまでフットサルをし、帰ってきたのが1時過ぎ、寝床に着いたのが2時。朝はいつものように6時30分に目を覚まし、いつものようにカーテンを開け、外の様子を見る。雨は降っていないが、黒い雲が近くを漂っている。もういちど、布団に入って10時に目覚めると、雨は降り、空虚感に襲われた。家にいるといつもそうだ。緑茶を一杯啜った。

 

コロナウイルスが蔓延してどれくらいの年月が経ったのだろうか。思い返すのに、すこし時間がかかった。頭の中で、過ぎ去った年月を数えても、すぐに思い出せない。しばらくして、もうすぐ 2年経つじゃないかと、過ぎ去っていった時間の速さに驚いた。蔓延初期に、イタリアの作家のパオロ・ジョルダーノの『コロナの時代の僕ら』の言葉を思い出す。「僕は忘れたくない」。

 

今年の正月は何をしていたのか思い出せない。毎日書いている日記を見返すと、正月の日々の映像がはっきりと頭に浮かんできた。丁寧に生きようが、雑に生きようが関係なく、過ぎ去った日々のほとんどを忘れていく。1週間前の晩飯や、天気やニュースもすぐにわすれる。それが当然のなのだから、忘れていくことを気にも止めない。けれど、ときに昔を振り返ってみると、いまに生きるぼくの存在を、その過ぎ去った日々の思い出が裏打ちする。

 

今年のお盆休みのことを思い出している。長野市美術館でMame Kurogouchiの日記を読んだとき、こんなふうに淡々とした日々の儚くさを日記に書きたいものだとおもった。それから、先月読んだ中村安希『インパラの朝』の一章を思い出す。「この小さなペンダントについて、少しだけ補足するならば、私は旅が終わるまで、それをずっと首から下げていた。ある一つの言葉を偶像化し、そのうえでその言葉を保持するための手段としてこのペンダントを採用したのだ」。

 

日記には、その瞬間のあらゆるものを思い起こせさせる言葉以上のなにかを記録できる。過去を振り返るために、小さなペンダントを身につけるがごとく、毎日淡々と日記を書きつづけようとおもう。いつでも振り返えられるように。

 

いま、風に吹かれた雨が窓を打ちつけている。