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3月29日

いつもの通る道を帰っていると、間違い探しのように思考は働いていて、はっと、通りすがりの民家の庭に白木蓮が咲きはじめたのに気づいた。まだ花は開いていないけど、蕾から白い花弁は飛び出した。

 

いつからおじいちゃん「らしさ」はうまれるのか。孫が生まれたときか、還暦を迎えたらか。ぼくは立つ姿勢にあるとおやじを見て思った。親父が立ち止まっているときの背骨の曲がりに老いを感じた。それに加えるなら、普段からの行動の集積だろう。こちらの意見を聞かないこと、忘れごとが多いこと、その世代特有の考え方(物事を解決するのになんでも買ってくること、付け足すこと。自分の手で作ったものよりデパートで買ってきたものの方に価値を置いていること。)、新しい挑戦がないこと、休日は一日中テレビにかじりついていることなど。

 

移ろいを感じるのには、知覚しなければならない。季節の移ろいも、ひとの移ろいも、日常のスクリーンショットを昨日と今日で横並びにして、間違い探しをしなくては、移ろいには気づかない。

 

ぼくは、めんどくさがりだけど、植物を育てるなら、ニオチロイド系の農薬は使いたくないし、戦争を体験したことがないから、伏せられている近代史を勉強しているし、戦争世代の孫世代だから戦前戦後教育や明治の政策の影響を過度には受けていないし(平成の政策の影響はあるかも)(親は戦争はノーだろうけどブラックボックスの蓋を開けない→勉強しない)、数ヶ月でも海外で過ごしたから違いの許容範囲は広い。

 

動物を可愛いと言っている人が、殺すのをかわいそうといい、ステーキをおいしそうに貪るパラドックスがある。それなら動物はいつ食肉になるのか。パックに並べられたときか、屠殺され死んだときか。ぼくは体験より、皮がはがされたそのときだとおもっている。

 

定量化できない問題はたくさんあって、その答えは誰も教えてくれない。答え合わせしても、ひとそれぞれで感覚は違う。答えには感覚の種類ほど違いがある問題では、その種類の豊富さがあることを知っていないと、これはこうだから違うという思考に陥り、最悪の場合、感覚では違うと思っているのに、みんなが正解と思っているからやっぱり正解なんだと思うことにしようとする思考、つまり二重思考に陥る。それ、やばいっす。教育なんすよ、大事なのは。