3月17日

10時前に起きて布団の中で、千夜千冊1700夜『華厳の思想』を読みながら、むくっと起き上がって、ブランチというのか朝昼兼用の食事を11時ごろに食べられるように、舞茸と玉ねぎを炒めて野菜ダシを作り、そこに水出しのカツオダシを入れて、菜の花と青ネギを加え、1時間煮込む。

 

昼ごはんを食べながら、YinYinのDis Ko Dis Ko( https://www.youtube.com/watch?v=mC6NlwUn8v0 )を聴きながら、思考がぐるぐるインターネット的に回る。インターネット的とは考えがハイパーリンクのように繋がって、最初に思い浮かんだこととは全く違うものがつぎつぎに思い浮かんでいくこと。最初は華厳、発酵とエピクロス。寺山修司の歌、金関丈夫に浸りたくなってAmazonに出向き、途中、千夜千冊515夜『岩波文庫の赤帯を読む』の冒頭で休憩。

 

「本を読むには、ふつうは最初に本を選ぶことから始まると思われているが、ぼくのばあい、そういうことは少ない。食事や旅行と同じことで、まず何かを食べたい、どこかへ行きたいという気分が先行する。だから、何を読むかという自分の気分の状態がある程度は鮮烈にかつ繊細に見えてくる必要がある。食べたいのだが、中華かイタ飯か鮭茶漬か油っこいものなのか。どこかにぶらっと出たいのだが、上海なのか温泉なのか、東北なのか、まだ行ったことがないところなのか。食べ物ならだいたいの分類が誰もが見えている。ラーメンを食べたいという衝動があることが自分でわかる。変わったものを食べたい、いままで食べたことがないものを食べるということもある。旅のばあいは、行き先のことをたいていの人が調べる。不思議なことに、まだそこに行っていないのに、その行き先のことを事前に知っていく。このような食衝動感覚や旅行事前感覚ともいうべきものが読書にもあるわけで、実は本を読む前に読書は始まっているというべきなのだ。」( https://1000ya.isis.ne.jp/0515.html )

 

そこから、北村道子さんからコムデギャルソンの川久保玲のロングインタビューを読まねばとNY Timesへ飛び( https://www.nytimes.com/2018/09/03/t-magazine/rei-kawakubo-comme-des-garcons-menswear.html )、白洲正子さんの著作を再編集した『風花抄』に伊賀と甲賀のことが書かれていると知って古書店へ出向き、そうそう今月は仏教の方法を学ぶのだと思い出して、中村元『中村元の仏教入門』にちょっかいを出して、そういえば今日は教室の扉に鍵がかかる日だったことをおもいだし、クラスメイトにメッセージをおくり、学衆は師範と師範代を擬くんだよなあと考えながら、先達ふたりの先達である小林秀雄とスーザン・ソンタグを読まなければと用意し、ああその前にソンタグ『反解釈』を要約読書するためにコピーしなければ、ああ小林秀雄と岡潔『人間の建設』も読まねば、そういえば、コンタクトの液が無くなってたから買いに行かなくちゃとぼんやりながら、少し寒いからこたつにはいっている。こうやって時は過ぎる。タブがどんどん増えていく、これはパラレルワールドか、マルチタスキングか。タブとタブ、あるものとあるものの間を繋ぐのはアナロジーだが、空白がなければアナロジーは息ができない。小津安二郎「外はしんしん、山はがいがい、煙草ぷかぷか、ぼくはうとうと」と。

 

そしたら、白洲さんがね、言うんですよ。「本当に国際的というのは自分の国を深く知ることです」と。