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3月10日

東京2日目。セキグチさん宅で起床。朝から仕事のセキグチさんと起き抜けにガッチリ固い握手。ゆっくりしてってとリビングに残された静かな朝に、キッチンの一枚板のカウンター席に腰掛け、昨日の余韻に浸かりこむ。へんな感覚の陥る。不調ではない。まったく異質ななにかである。からっぽのわたしがそこにいた。午前中を豊島園のセキグチさん宅で過ごす。菜の花の味噌汁をいただきながら、セキグチさんの奥さんと食べ物談義に花を咲かせる。奥さんも同じ学校の別クラス、理学療法士で患者さんの話をノートに記録しているという。いつかはそれを出版するのならぜひ手元に置きたいなあとおもいつつ、授業のことなどを話す。ひとこと、「辛かったんだ」と。「辛かった」からとりあえず次のステップには進まないとおもっていたんだけど、なんかぼくといろいろしゃべっていたらやる気が出て来たようで、なんかすこし嬉しくなった。

 

なんか、合理的な判断ではまったくなくて、こればっかりはなんといいよなあなんて基準の判断方法なんだけど、かえってその方がぴったり合っている気がするわけだけど、ぼくは食べ物のことや生活のことを真剣に考えているひとや、自分の手で作っているひとに馴染みやすいようだ。そのやり方は違えど、とても気持ちよく話せる、よくわからないが。だからいまはそんな時代なのだとおもう。

 

昼前まで語り合った後、最寄駅まで見送ってもらい、固い握手を交わし、のっぺりゆるい豊島園を後にし、緊張の糸がピンと張っているキザな代官山へ。東京といえど、場所によって人の立ち振る舞いが場の雰囲気を生成する。代官山のパンケーキの店はどこも列をなし、インスタ映えしそうな店も右に倣う。そんなパンとサーカスな店を越えて、誰も並んでいない、この空間における異質のラーメン屋で、昨日別れた先輩と再合流する。店先にはメニューが張られているけれど、この街にやってくるひとたちのフィルターには引っかからないワード並んでいる。ベジブロス、処方箋ラーメン、グルテンフリー。日曜日だけ営業の代官山ラーメンをいただく。

 

ショウガの利いた超あっさりのスープに、ひえやあわから作られた麺。美味しい。このラーメン屋に行列ができる世の中に変わったとき、世界はすこしよくなったと実感できる気がする。店を出たとき、キャピキャピしていた女性が前を通って、メニューを見て「サラダとラーメンだって」と呟いて去って言った。そうか、そこまでしかみていないか。そうだよな、どんなラーメンなのか、どんなもので作られていて、それはなぜなのか、なんてのは頭にない、それどんないい写真が撮れるのか、いいね!はどれだけもらえるのか、それだけなのだろうか。

 

そこから代官山の大型書店へ歩いて向かう。本の質は圧倒的でよいいのだが、分類された棚のジャンルのなかでもクリティカルになりそうな、キーブックスが一番下の探しにくい場所にあった。たとえば医食同源の棚では桜沢如一『無双原理・易』が一番下に隠れていた。この本屋は街の雰囲気を表すがごとく、わかりやすさだけを、見栄の空しさを、映し出しているように感じた。この店落ち着けない、本なんて読んでられない、と思ったとき、すぐに外に出た。確かに本の量や質はいいし、椅子や机は多いし、店内にはカフェがあるから、ゆっくりできるハードは揃っている。けれどリラックスできないのは、雰囲気はそこにいるひとが作っているからだと思う。いい店って、そこに訪れるひとが醸し出す雰囲気のことだなとおもった。

 

ここ数年は、年に一度東京へ出向く。観光地は一切せずに、会いたい人に会いに言って手ほどきを受け、いくつかの気になるお店に行く。僕の東京はそんな東京のようだ。ひとと会って話をする時間は何とも贅沢だ。移動時間なんてやすいものだ。新幹線の椅子の角度もなんてことはない。今年もいい東京の日々だった。