2月24日

昨日はひさしぶりに飲み会に参加。ビール2杯に留めたが、勝利の美酒はうまい。帰ってきたのが2時ごろだったか、歯磨きをしてすぐ布団に潜り込む。9時に目を覚まし、産直へ買いに車を30分走らせる。野菜売り場では、カブや大根などが少なくなって、菜の花などの葉野菜が勢力を増やしてきた。今日はブロッコリーとカリフラワーを見た。野菜売り場が移ろいでいる。さて、今日からしばらくフットサルはおやすみ。オフ期間中はいつもとちがうことをやる。

 

3月の東京の段取りを組み(旅行は計画段階ですでに楽しい)、数冊の本を平行読書した。で、夕食後から千夜千冊の『ネットバカ』を読む。数ヶ月前に読んだときと、似たような箇所に注意は向いたが、今回はこの文章の構成により注意が向いた。学校で学んだことがすこし体に染み込んだのだろうか。どうやら、千夜千冊の『ネットバカ』はマクルーハンという手すりに沿って文章が編まれているようだ。(とこのとき僕の師匠もマクルーハンを手すりにしていることに気がついた。マクルーハン読まねば!)

 

多読を始めてからこの3年で、思考の変化がものすごいことに驚いている。この驚きはたいへんおもしろくて、だからこそ、多読を勧めているのだが、その理由のひとつは千夜千冊『ネットバカ』にある。以下参照する。

 

マーシャル・マクルーハン(70夜)が『メディア論』(1964)で何を言ったかというと、2つのことだった。「メディアはメッセージである」ということ、文明文化のもとにある大衆は新たなメディアが登場するたびに「そのメディアの形をした情報に囚われていく」ということだ。

 

それなら、企業や役所で誰もが何の苦もなく電子化された文書が読めているのはなぜなのか。みんなそういうツルツル短文の電子文書を日々抵抗なく読んでいるし、アタマにも入るし、引用もできる。なぜ、そんなことができるのか。答えはかんたんだ。それらの文書は一冊の本や小説の作品にくらべて、きわめて短いものなのだ。また、その多くはメタファーやアナロジカルな表現を避けている。われわれは日常的にそういう電子文書に慣れているので、ついつい電子書籍にも同じ「読み」が効くと思っていたのだが、どうも問屋はそうは卸してくれなかったのだ。

 

イヌイットは最先端のスマホとGPSを知ったがゆえに友達と会う必要がなくなり、かえって孤立してしまったのである。

 

やっぱ読書なんすよ。身体知なんすよ。感情知なんすよ。知というのは身体感覚と強い絆で結ばれているし、読書っていささか辛いものだし、読書中って感情を揺さぶられるし、その揺さぶりに対してどう対峙するのかが大事なわけだし、そこは自分勝手でいい。この本をこう読まなければいけないなんて解釈は糞食らえなんだよ。

 

自転車の乗りかたを体が覚えて入れば、歩きでは考えられないくらい遠くへいける。既知の中の未知へ向かうには、自転車しかない、読書しかない、方法でしかない。