1月6日

丑三つ時を跨いで稽古に勤しむ。たくさんのわたしのそれぞれがそれぞれ並列に動いている。さながらブラウザー上のたくさんのタブのように並ぶありさまの思考。頭はマルチタスキングで処理する意向。気づいたらベッドにインして起きたら寝坊。

 

昼前に『へうげもの』を読む。直近で読み終えた漫画は、2年前になるが『もやしもん』で、読み続けているのは、『ゴールデンカムイ』だけ。そこに『へうげもの』がカットインし、手持ちのマンガが、二つになった。

 

『へうげもの』は戦国時代のマンガなのだが、焦点は戦ではなく、古田織部の数寄にあると見ている。まだ1巻を読んだだけなのだが。そこで千宗易(利休)の弟子山上宗二が「良いものを見るためにどれだけ機会をつくりどれだけ足を運ばねばならぬか」「見た目の風情だけでなく 所蔵していた人物の品格や歴史をも踏まえて価値を決めているのです」と。そうだよな~と思いながら、ちょうどいいタイミングで運ばれてきた師範代からの差し入れのリンクを読む。

 

記事を読みながら、いま本を読みながら、あるいは、この日記を書きながら、あるいは、どこか遠くへ行ったときに、思い浮かんでくる別次元のこと=プロフィールを思い出し、書き綴ることがとても大切なんだなとおもえてきた。なぜ、ぼくが『へうげもの』を読んだのか。その前後のプロフィールを日記に意識的にしるしていこうと思う。

 

本を読むときに、その著者の育った場所や教育、生きた時代と背景(背景とはひとことで言うとその時代に人々は何を求めていたのかということ)、人間関係、これらを地として読み込まないと、ある発言は意図とかけ離れて理解してしまう恐れがある。

 

昼過ぎに、おかんが「あんた昔はそんなんじゃなかったよな」と言ったから、「あんたそんなんじゃなかった」自分と変わった自分との境界へ見当をつけて振り返ってみる。ぼくがいまのぼくに近づきはじめた初動の境には、メンターとの出会いが間違いなくあった。海へと流れる川の最初の一滴が山の頂上からはじまるように、ぼくの考え型の最初の一滴はメンターが落とした一滴だった。(それ以前は考え型などもちあわせておらず、ただなんとなく無意識な毎日が暮れていくだけだった)

 

ぼくがメンターをメンターと思うのは、1)こちらのレベルを引き上げてくれるから。いいかえると、こちらを焦らす。「おまえは、そんなもんなのか」と。ある事象を説明するのに適切な言葉があるとすれば、その言葉を簡単な言葉に置き換えないでそのまま使う、「お前が知りたかったら自分で調べろ」という姿勢を崩さない。それは不親切とかそんな陳腐なことではなく、そうとしか表現できないということをこちらに気付かせている。音源を考えればよくわかるが、ダビングを繰り返すと音質がだんだん悪くなっていくのに似ている。または、アナログをデジタルに変換すると、デジタルで表現できないアナログの音はごみ扱いされる。そのゴミが宝だと知っていれば捨てないだろうに。

 

2)指南する。いく先を指差しながら、考えろと。あの山のてっぺんに行け、あの星に向かって歩けと。それで必死にあがいてあがいているうちに、方向を間違えたとき、そっと軌道修正する。

 

3)委ねる。答えは絶対に言わない。あるできごと自体は誰にとってもフェアで、そのできごとを自分が見たときにどうみるかが見方である。出来事自体には感情はなく、あなた自身に感情があるのだからと。「見方」とは、自分の心の持ちようであり、それが「世界」そのものなのですと。

 

4)絶対量からの厳選の3パーセント。たとえばある作家のことを書くとしたらそのひとの著作を50冊まず手に入れたり、ものを紹介する際にはその分野のものを全部手に入れ、使ってみてから評価する。そもそもの絶対量が違う。その上でぶれないのは、誰に向けて話すかということ。不特定多数ではなく特定少数に向けて。そうです、圧倒的に好き嫌いを好む。そういうひとたちを数寄者と呼ぶ。

 

さて、昼過ぎから、稽古に打ち込む。Miles Davisを聴きながら、稽古しながら、金子光晴を読みながら、コタツムリになりながら、複数のことを同時に進める。二兎追うものは一兎も得ずというが、二兎追って三猪得るような感覚で猛進すると、金子光晴『歯朶(しだ)』に心をさらわれる。「この世になくならぬ わかさのやうに、わかさしかしらない かなしさのやうに」

 

夜、21時過ぎから、ちょっと遠くの温泉へ。「ちょっと遠い」をもっと見直した方がいい。なんでもほしいものがワンクリックでやってくるのは便利だが、それで失われたものだってある。ちょっと遠いと知り合いに会わない。ちょっと遠いと道中でハプニングにあえる。ちょっと遠いと考え事が進む。ちょっと遠いと帰りたいときに帰れる。ちょっと遠いと好きな音楽を聞ける。

 

ハワイに行っていないし、とりわけ特別なことなどしてない粛々とした正月休みだったけれど、わりかしよかった。なにがいいって、最後に大きな風呂に入って、ふうぅぅっと息を吐いて、すうぅぅぅっと大きく吸い込んだら、シャキッと冷たい夜とモワッと温かい温泉の湯気が混ざった空気を味わえたからなんだろな。暗い帰り道にKhruangbinの疾走感のグルーヴたまりませんな。