1月5日

「あえて多くを語りません。十年後のご自身を、もっと本気でご想像ください。」by 師匠 を思い出す。数年後の自分を想像したとき楽しそうでなかったというのが、ひとつの動機だった。前の仕事を辞めたときも、フィリピンに行ったときも、振り返ってみると短い人生のターニングポイントとも、あのときのわたしとそれからのわたしの間には、師匠がいた。師匠は師匠でやるのはあんただけどね、なんて、チャーミングに微笑むだけだった。なんて、早めに起きて、ゆっくり朝食をいただいた休みの朝におもう。

 

おもいながら、なにを持ってひとはひとを信じるのかとぼやっと考える。

 

僕は数年前に、いま本をたくさん読まなきゃ手遅れになるヤバいと危機感を感じて多読をはじめた。結果、やはり本をたくさん読みはじめてよかったことを母に伝えると、母は「そんなに本を読んでも本に書いてあることが事実かどうかわからへんやん」というようなことを言ったことを僕ははっきりと覚えている。

 

そしたら、グッドタイミングでいただきましたよ、師範代から。

 

「読書によって圧倒的に量や背景となる複層的な情報がみるみるインプットされますから「本とは何か」を知った輩ならば、確実に正解のない解を求めにいくでしょうね。」

 

「その定義は「物事を深く思考し、自分の考えを組み立て、事の本質を追求し続けるための“手段としての読書”のこと」です。読書を目的とするのではなく、自らの考えを組み立てるための”手段”としての読書を指します。」

 

僕がラッキーなのはいい師にめぐり逢えたこと。いい師との邂逅は人生のとてもとても大切な要素だ。グレン・グルードが漱石の『草枕』に出会ったように、本居宣長が賀茂真淵に出会って古事記伝をはじめたように「懊悩に鶴嘴を打ち込む。」と夏目漱石は言ったが、身体に電気がピリリと走る衝撃のような出会いですね。

 

本の大切さを語るにはこれで十分でしょう。さてさて、何を持って、ひとを信じるのか。血縁なのか、仲の良さなのか、画面の有名人なのか、玉石混交のYouTubeのコメント欄なのか。僕は13年前にITはとっくに終わったと言ったひとの話を聞く。何を持ってひとはひとを信じるのか。