1月3日

正月三が日の朝らしくゆっくり起きてのんびり支度をする。 昼に兄が帰ってくるというので、昨年末にいただいた最上のイノシシのランプとバラのブロックをスライスする。冬場のイノシシの肉は脂身が多いからよく切れるかどうか包丁を試すにはうってつけ。家にある台所の包丁はよく切れない。研がないといけない。

 

昨日に出向いた関にて。神事が行われた日本刀鍛錬場の横の会場で、刀の伝承の展示があった。そこで、目にした掛け軸が僕の脳裏に焼け付いて、以前に河井寛次郎記念館に行ったときの感覚と結びついた。その掛け軸は、「鍛治神図」。火と竈の神である三宝荒神が三面六臂の姿で現れ、掛け軸の下部では、刀鍛冶が刀を鍛錬している奥に、大鎚をふるう鬼が描かれている。先の河井寛次郎記念館でも陶器を焼く窯がありその側に神が祀られていた。

 

この図を見てはっとしたことがいくつかある。ひとつ、仏教の知識がないからその向きの本を読まねばと思ったこと。1月の選書テーマが決まった。ひとは知っているものしか見ることができない。ふたりのひとが同じものを見ても意見や見方がまったく噛み合わないとき、そのもののことについて知っていることの差が大きいか、違う地で話しているかが原因にある。それに気付かなくては、議論しようがない。

 

ひとつ。以前なら華美な建築や目を引くわかりやすいもの、声の大きものや有名なものにばかり目がいっていたが、いまは、そこに現れるものとその形状や色、それらの配置を見、そこに現れていないものを見ながらその型も同時に見ているようにおもう。まだまだ経験不足知識不足のため鍛錬せねば。

 

ひとつ。この図を見て感じたこと、特に、刀を鍛錬している刀鍛冶の奥で鬼が大槌をふるっているのを見て、ああ、どうやら、神の見えざる手のようなものが、職人世界でとても大切に扱われているのだな。(これって、もっと家庭でもすべきことなのだとおもうのだけれど、職人的生活は減少しているもんな。だから、職人的思考も絶滅危惧種となっている。職人ってブリコラージュのプロフェッショナルだから学ぶことは多いと感じている。)素材の特性を理解して理屈を持って方法を試したその先の最後の最後の部分では、なぜそうなるのかわかならい超細部があるのだろうこと。「よくわからないがそうなる」超細部に神が宿るのだろうこと。それを古人は大切にしていたこと。やっぱりな。

 

すべての物事は極めてフラットに出来ており、それを「どのように見るのか」がとても大切だということby 師匠

 

毎年あるいは数年おきに、同じ場所へ出向くのは、そのときに自分がなにを感じたのか、そのときにおもったことを大切にしたいと考えているからなのだろう。そこで、変わった自分と変わっていない自分に出会う。

 

数年前から、この日記をはじめ、その日にやったこととそのときに頭に沸き起こった考えを、その日の夜に思い出すように書きつづけた。いま通っている学校では、課題が出され、回答し、振り返る。振り返りでは回答を考えている時の頭の流れを書き出す。振り返りをとても大切にしている。内省を書き出すことが大切なのは、無意識を意識することにある。日記を書くことで、その微妙な変化に気づけるようになった。気づいて言葉で記すことがいまはとても大切なのだとおもう。そうおもいながら、この世の中で唯一の変わらないことは、変わり続けることだと振り返る。 去年と同じことをしていないか、同じ場所に出向き、振り返る。