12月29日

何となくわかった。帰納的推論です。おそらくで話します。現代生活ではいくら注意してもどうにもならないことがある。それでも注意してやることとなにも知らないままにやることには天と地ほどの差があると思う。そのうちのひとつは食べ物だとおもっている。食べ物のことを語らせれば、近江から東京まで高速道路に乗って話し続けられるだろうからここではやめとくとして、食べ物による中毒が抜けてきたように最近おもう。

 

そうです、食べ物には中毒がある。依存性の高い食べ物があるのです。脳を麻痺させ満腹感を感じさせない食べ物が身近にあるんです。たいがいそれはいいとおもっているものだたり、よくテレビで見るものなのだけど、まあそういうのがある。この数年いろいろ試してきた。個人的に体に合わない食べ物が、科学的な検査と、帰納的な経験と、歴史的な伝えを、すこしずつ組み合わせながら試し、おそらくの見当がついた。それらをこの一年は意識的に避けてきた。

 

その判断基準の第一は、直感に頼ることにした。第二に最新の科学的根拠に(テクノロジー進化してるよ!アップデート怠らずにね。)第一の直感とはたとえば、肌の調子、便の頼り、頭痛の有無、目覚めのスッキリさなどの、定量化しにくい調子のことだ。まあいろいろあるが、食べ物は大事だよってことです。

 

さて、昼に手羽先から鶏の出汁をとる。僕の料理の(勝手に)師匠の有元葉子さんの方法に習って、土鍋に手羽先を入れ、ひたひたの水を入れ、沸騰させ、灰汁を取り、弱火で30分煮る。それをさまして、漉す。

 

ジョン・ケージが雑音を音楽と解釈するように、水を注いで鍋にふたをして火をかけてしばらくすると、コトコトとふたが鳴り始める。これは五線譜に記せないいわば雑音なのだけど、この音を聞けば生活感が溢れ出る。自宅の台所で耳にする音において、これ以上にぴったりなものはない。最近はそういうところに、注意のカーソルが動いていく。ジョン・ケージのヤバさ加減。雑音を必須の音と捉えるには、見方を変えるしかないのだ。これは慣れ親しんだことや慣習を変えることや新しいビジネスにも対応するのだろう。「かわればわかる」なのだ。そのあいだにあるには、「わける」なわけで。

 

夜、雪がちらつくなか、ボブ・ディランを聴きながら、車を走らせ、フットサルの練習に向かう。妙にほどよく、こころと景色が溶け合う感じは。配達員のディランが歌をうまく運んでいるからなんだろう。

 

寝る前に、歯磨きをしていたら、そういや今日こんなことを思ったんだなと、頭をよぎった。ぼくたちは、言葉の前提を考えないで都合よく使っている(使わされている)んだよなと。その言葉のなんとなくを知るだけではダメなんだよな。なぜって?言葉にはすごい力があるから、その意味と使い方にもっともっと深入りしなけりゃ、間違いを起こす可能性孕んでいるんだよな。いや、もうすでに起こしているんだよな。

 

で、いまここにものすごい可能性を感じていて、ここを深くえぐっていくと、行き場を失って身動きの取れない事象を、新たな視点で捉え、違う世界を生み出せそうな確信に近い予感を感じ取っているんです。学校で。プラスチックワードばかり言っていちゃダメです。言葉を要約し、誰もが聞き取りやすい、わかりやすいものにしすぎてもだめです。都合、適度な、必要最低限の言葉の姿形を守りましょう。

 

そのためどうするかというと、ひとつは、「〇〇らしさ」をとらえ、「〇〇はというと〇〇」で説明し、「〇〇といえば〇〇」を動かし続け、「〇〇とはそもそも〇〇」を元にして、これらを総合するのだよ。

 

さて、今年も残り3日。しっかり振り返ろうかしら。なんとも実験的な1年だった。投資の多い一年だった。種を多く蒔いた一年だった。帰納的推論による結果を得られた一年だった。数ヶ月おきの試行錯誤な一年だった。これまでで一番本を読んだ一年だった。言葉の深遠の淵に立ち飛び込んだ一年だった。飛び込んだ先でヤバい連中に遭遇した一年だった。好きなことややりたいことをたくさんした一年ではなく、やるべきこと、ひとの役に立つことが目の前に現れた一年だった。たべもののことを真剣に考えた一年だった。食べ物と体の関係を大いに実感できた一年だった。3年計画の3年目を迎えたいくつかの実験の結果が概ね得られた一年だった。来年の予定が決まりつつある一年だった。方法こそが主体だと認識した一年だった。とりあえず、超速振り返りでした。本日で仕事を納めました。おやすみなさい。また明日。

 

とおもって寺田寅彦にてをかけたら夜が更けてしまった。「無常迅速は実に我邦の風土の特徴であるように私には思われる。」