12月24日

昨夜、ひとがひとを呼び膨れ上がった飲み会のあと、その場で寝袋に抱えられながら眠りに落ちた。朝に社長の奥さんから質素な朝ご飯をいただいてから帰宅する。寂を感じる。祭りの後の余韻のような、あの寂しさを感じる。

 

大きな飲み会はあまり好きではないが、気づくと大きな飲み会が嫌いなのではなく、その場に集まるひとたちが好きか嫌いかだった。規模ではなかった。ということは、僕の好きなレストランはおいしいからじゃなくて、おいしいもふくめ、そこに集う見知らぬ人や一緒に行く友人やそこで働く人たちの雰囲気が好きか嫌いかなのだろう。たまにはこういうのもいい。ほんとにたまには。かつての祭りの余韻ってもっと強く感じたんだろうな。明日はもうひとまわり小さいパーティーだ。こちらは変な友人たちと。

 

長野製薬の百草丸を20粒飲んで、一眠りし、昼前に電車で大阪へ向かう。久しぶりに電車に乗る。ディランのノーベル文学賞のスピーチの全文とBuddy Hollyをセットで。

 

さて、普段とは違う移動手段に身を委ねた。いままで気にしていなかったこと、無意識だったことが、学校に行き通い始めてから少しずつ、意識的になってきた。ディランのささやきにうっとりしていたら、大阪駅についた。電車のドアが開いて、プラットホームにでた。そこには、たくさんのひとと、たくさんの文字と、たくさんのガレキがあった。僕の日常と対比させておく。まばらな人、文字の代わりに風景、瓦や土や木がある。生まれより、育った環境によって、考え方やものを見る目が大きく違うのが、何を甘く見て、なにに敵意を感じるのかが、大きく変わるのがよくわかる。身近な危険が違う。

 

こんなに大量の文字の中で生活をしていると、栄養過多になりはしないのだろうか。文字は非物質だからいくらでも食べられるのだろうか。都市の人は季節を文字で知るのだろうか。ぼくは山の移ろいで知るのだが。田舎と都会の違いは文字の量だな。友人に会いにいくのはいいが、長居はできそうにない、なんて思いながら、都市を去る。