9月18日

いつの間にか、田植えを終えた畦には、彼岸花が咲き乱れている。

夜、沢史生『鬼の日本史』を読む。今日では米といえば白米のことをさす。玄米とは精米するまえの胚芽と糠層がある米で、玄米を精米(胚芽と糠層を取り除いたものが)したものが白米だ。かつての日本人は玄米を食べていた。野菜の皮には、栄養がおおく含まれている。おいしさやきれいさを求め、あるいは、農薬や堆肥の問題で皮をむく。これは『鬼の日本史』そのものではないかと読みながら思った。鬼とは、語られてこなかった歴史のことなのだから。

話をするときには、よくいやなことは話さず、いいことを大きくして話してしまう。そうすると鬼はすぐに隠れる。

現代で大切にしなければいけないのは、野菜の皮であり、鬼なのだとおもう。不都合な真実は陰に隠れていて、あべこべこそ事実で、文化を支えているのはフラジャイルな部分なのだから。ぼくの好きな本、松岡正剛『擬』は、「<世>という本質の大半が首尾一貫しなくともかまわない<擬>でできているということを、そろそろ歴史の大前提だと言い切ってしまうことである。このこと、科学者やミュージシャン、思想者やアーティストにも、託したい」と〆られている。