9月17日

三木成夫『胎児の世界』を読む。

 

まえがきに「記憶とは、本来、回想とは無縁の場でおこなわれるもののようだ。いいかえれば、人間の意識とは別次元を異にした、それは生命の深層の出来事なのである。アメーバの裾野にまでひろがる生物の山なみを舞台に、悠久の歳月をかけた進化の流れのなかで先祖代々営まれ子々孫々うけつがれてきた、そのようなものでなければならない。人びとはこれを生命記憶とよぶ。」とある。

 

記憶以前の記憶のようなもの、たとえばヒトがまだ海にいたころの記憶、の面影は身体にしみついていて、それが文化として生活として現れる。柳田国男が伊良湖岬にたどりついた椰子の実に南洋を想ったように、ふだんの生活のいたるところで、生命記憶が動いている。ぼくは北アルプスを眺めたときに古い記憶が立ち上がる。山や川など自然の目印となる造形物に故郷を想うのは、日本の地名の名付けかたから見て取れるが、なぜ以前にいた場所の記憶を、いまの場所に持って行くのかを考えると、生命記憶が動いているのではないかと思わざるを得ない。ぼくたちが心象風景を思い描いているときには、遠い遠い先祖の記憶を重ねあわしているのだろう。