7月25日

ある一節に出会うために、何百冊も本を読んでいるのではないだろうかと思うときがある。ある一節に出会うかどうかは、出会ったときに初めて気づくのだから、本を読み進めなければ結局分からない。

今日、「ぼくの近江の知識人の七分の四くらいは白洲さんに貰ったもの」という一節を読んで、白洲正子『かくれ里』『近江山河抄』を読もうと思った。ぼくは近江に住んでいるのに、近江のことをちっとも知らない。

春の桜の咲く時期、夏雲の立ち上がり方、秋の一日の寒暖さ、冬の風の向き。方言や土地勘などは身体感覚として知っているが、歴史や文化と自然との古代から続く関係や日本の面影は白洲正子さんから知識を借りたい。

梅雨が明けて、しばらく危険な暑い日が続いてる。体はオーバーヒート気味ではあるのだが、心は健全で、なにもやる気が起こらなかった梅雨の数週間から、一転、読みたい本ややりたいことが溢れ出てくる。いまは本を読み現実と照らし合わせたい。

白洲正子と近江、安田登と能(9月22日に伊賀上野城である薪能を見に行く。観阿弥、世阿弥は伊賀出身なのだ)、有事と松岡正剛『千夜千冊 番外録 3・11を読む』、折口信夫『海やまのあいだ』とアズミ族。

やる気も、やりたいこともある。時間は誰に対しても平等で、どう使うかが問題だ。今の生活や人間関係の維持のために日々を同じように過ごすのか、未来のために過ごすのか。覚悟して、なにかをやめなければ時間はできない。大事なことには時間がかかるのだから。読書も、技術の習得も、人間関係も。