7月18日

今日も言われたけれど、たまに意識高いねと言われることの意味が分からない。まるまる女子とか、意識高い系なんて名称も意味がわからない。そう見えるかもしれないけど、ぼくは明確な目的をもってやっているだけで、面倒でもなければ、意識も高くない。通常運転だ。数年かけて少しずつバージョンアップしながら習慣化しているから苦でもない。そもそもやり始める前に、結果が出るまで2年はかかるとマインドセットしているから、すぐに目に見える結果が出ないことは想定内。

 

だから久しぶりに会う友人に現状報告すると、そんなの絶対無理と言われる。いやいや、ぼくはそもそもいきなりそんなことをしたわけではなく、手始めにこれ、その次にこれと、長期計画で段階的にステップを定めて一歩ずつ歩いただけ。その小さな変化の記録をここにしているわけだ。そう考えると、どこか遠くに行く方法は、毎日少しずつ小さなことをやる、しかない。そのうち気づけば遠くにいるのだ。学校を卒業してからは時間の使い方がすべてだ。だれも他人の時間の世話をしてくれない。

 

ひとの行為は昔からほとんどかわらない。食べなければいけないし、寝なければいけない。食材を買って、家に帰って、調理して食べる。(そんな時間がないひとはコンビニやスーパーで惣菜を買うか外食ばかりで不健康)行為自体は変わらないが、その食材になにを選ぶのかは、知識によって変わる。だから、知識は大切だ。それなのに、知識といえば、クイズ番組の答えが決まっているようなものだったり、センター試験に使えるものだとおもわれている。

 

ぼくは知識とは、それを知る前と後で世界を変えるものでなくてはいけないとおもう。知識だけじゃ頭でっかちで重荷になると思いがちだけど、ぼくはそうはおもわない。知識は頭にいくらでも詰められるし、知識を増やせば変化を察知できるようになり、変化できない自分に気づき、プライドを捨てられ、変化や違いを受け入れられるようになる。知識があればあるほど、行動が自由になる。

 

ぼくの好きな本に、石川直樹『すべての装備を知恵に置き換えること』がある。知識は持ち運び自由だ。持ち運び自由だから、有用な知識があれば、荷物を減らし、身を軽くできる。リュックが軽ければそのぶん移動距離が伸びるし、疲れも少ない。移動距離が伸びれば誰も見たことのない場所までたどり着ける。その知識を得るために唯一必要なのが時間だ。一朝一夕では知識は身につかない。

 

やっていることの先になにがあるのかが大切ではないだろうか。なぜなら目的に人が集まるのだから。なにかを選ぶには知識と選択肢がいる。だから知識を増やし選択肢を増やすこと。その中からちゃんと選ぶこと。ちゃんと選ぶには、余裕がいる。時間に迫られていたり、風邪を引いていたり不健康であると、正確な判断ができない。でも誰もが同じ24時間しか持っていないのだから、24時間をどう使うのかが大事なわけだ。The BeatlesがWe can work it outでLife is very short and there is no time for fussing and fightingと歌っているじゃないか。

 

本に書いてあることが本当のこととは限らないでしょって言ってなにもしないひとは、都合のいいことしか言わないテレビやインターネットや当たり障りのないことばかりを信じる。だけど本を読めば読むほど、自分の無知に気づき、知らないことを知り、その集積やトライアンドエラーが重なって精度が高まっていく。こればっかりはその経験がないと実感できない。インスタントやコンビニエントが猛威をふるっている。すべての問題は、疑問を問いにできないことなのではないか。言い訳は時間がないとか、すぐにわからないとかなのだろう。解像度を上げれば見えないものが見えるようになるのに。

 

今日もムクゲがきれいだ。