7月10日

読書がいいってわかってるいるのに本を読まなかったり、砂糖がよくない(fed up)と知っているのにお菓子ばかり食べたりするのは、現代人には時間がないからなのか、師匠を持っていないからか、知識不足からなのか、わかっていることと、実際にやることが離れすぎているせいなのか。あらゆる提案やおすすめやアドバイスがひとりひとりを見ていないのに、有名人が言ったからとか、みんながやっているからといった理由でやるのはなぜなのか。

最近は新書と再読半々の割合で本を読んでいる。今日読んだのは、井上やすし『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』。これは以前、おもしろい文章を書きたいと思っていたときに手に取った一冊。おもしろい文章は、主語が「わたし」の文章だということ。たとえば読書感想文を書くとすると、どうしても、本をうまくまとめようとする。そうではなく、その本を読んで、自分が考えたことや思い出したことを書いたほうがおもしろい。極端な話、その本を読んで、その本のことを書かないほうがおもしろい。あーこういうことは小学生のときに知っておきたかった。ラーメンの話をするなら、「わたし」のラーメンについてなのだ。同じラーメンを食べてもひとによって好き嫌いが違うのだから、「わたし」のラーメンのことを書くだけで、他にない文章となり、おもしろくなる。

それと、自分独自の体験にくわえて、多読が必要だなと。人に伝えるのもそうだけど、なにより、自分の考えていることや思っていることを文章にするのに、言葉はとても大切なのだ。村上春樹の頭のキャビネットに言葉(彼の場合はクリエイティビティ)がたくさんないと目の前で起こったことをうまく言葉で伝えられない。その言葉をキャビネットの中に詰め込むのに一番多読が役に立つと確信している。伝えたくても伝わらないことの原因は、読書不足にある。

ぼくは、何も言わなくても、他人の考えをトリックのように100パーセント理解できるとは思っていない。その逆も。だから、思っていることを正確に言葉に乗せて伝えなくちゃいけない。そのときに言葉はとても大事だ。言葉を使うためには表現をあらかじめ自分の中にせっせと溜め込んでいなければならない。何で気づいてくれへんのと思っていたら、申し訳ないけどといって、言葉にしてと頼んだ方がいい。すれ違いの原因はそこにある。思ったことを正確に伝える。それこそが相手をおもうことではないだろうか。仕事でも友人と話していても。