TOSHI KIDA
ウツロイ
色は匂へど散りぬるを

Everyday with playlists


6月3日

遅めに起きて、松岡正剛『デザイン知』を少し読んで、練習へ向かう。いい天気だ。車の中で、『デザイン知』のアフォーダンスのことが頭の中に現れた。車内ではティンパンアレイの『絹の道』が流れている。

 

自分の頭の中のイメージからアイデアやクリエイティブが生まれると思いがちだがそうではなくて、実は、ものが我々に何かを与えているという。「紙はわれわれに何かを与えているのである。イメージをもたらしているだけではない。われわれに何らかの動作を促しているのだ。その何かを与えているということをアフォードという。(中略)紙はわれわれにさまざまなアフォードをしているわけである。われわれが何をしなくとも紙はいろいろなアフォードの可能性をもっている。そのようなアフォードの可能性がいろいろあることを、この紙にはアフォーダンスがあるという。」(『デザイン知』松岡正剛より)

 

ものによってアイデアやクリエイティブがもたらされる。僕の好きな言葉に、才能がある。決して自惚れているわけではないから勘違いしないでほしい。才能があると言えば、生まれつき持って生まれたもののイメージだが、日本ではもともと、才能は才と能に別れていた。何回か書いているけれど繰り返す。「日本では才能というものは、才と能との二つが共に合わさらないとだめだとされていた。才はざえと呼んで、これは人間ではなく、もの(素材)のほうに備わってるものです。だから庭師にとっては、木や石のほうにあるものが才で、それを引き出すのが庭師の能ということになる。」(『日本問答』松岡正剛、田中優子対談集より)ということは、センスやクリエイティブはアフォードされるということだ。才能を磨くというのは、いいかえると、ものを深く理解することだ。そうすると、その方向や行き先はものが教えてくれる。

 

なにをするのにも、やりはじめるまえには、行き先をはじめに考えるべきだと思っている。とりあえずやればいいやんと何も考えない人はよくいうけれど、努力の方向を間違えればゴールはいつのまにか遠くにある。やりはじめるまえに、ゴールをイメージする。そこから逆算して小さなステップを定め、いまやることをやる。

 

夜、探し物をしていて、千夜千冊の松尾芭蕉『奥の細道』を読んでいたら、こうあった。「もうひとつ書き残したことがあった。それは『三冊子』に出てくる芭蕉の「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」という言葉である。これは何度出会っても、すばらしい教えだとおもう。芭蕉は「習へ」とは、物に入ることだと言ったのである。習いながら私から出ることだと言ったのだ。それが松には松を、竹には竹をということである。『三冊子』には「私意をはなれよといふ事なり」というふうにある。しかし、芭蕉はそのあとにもっとドキッとすることを言っていた。それは、「習へといふは、物に入りて、その微に顕れて情感ずるや、句と成るところなり」という表明である。「微」にあらわれるところに「情」を感じて、そのまま「句」になっていけ、そう言ったのだ。 なんと蜻蛉の翅のように透明な微妙であろう! 畢竟、芭蕉五十年の生涯とは、「微」に入って「微」に出る一句のことだったのである!」

 

カタチは重要だ。記憶やアイデアは外部にある。コップを持つのだって、誰にも教えてもらわなくても、いつのまにか手はコップの形になっている。使い方はコップが教えてくれていた。

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