6月2日

昨夜の練習を終え、帰宅し寝て、今朝から夕方にかけてのトレーニングを終え、帰路に立つ。疲労しているときによくアイデアが思い浮かぶ。入れ子になっている頭の引き出しに溜め込んだ言葉は、引き出しから引っ張り出すときには、引き出しに入れたときとはまったく変わっている。身体が疲れているとき、その機能をカバーするように頭の回転数があがる。帰路の黄昏の薄明かりに思考のスピードは加速する。

 

ぼくは人と違うことをするのがすきだ。たとえば、友人がランキングTOP10の曲ばかりきいていたから、ぼくは洋楽インディーズを聞いていた。よくあるのはこういった全く別のことするということなのだけど、「違うことをする」には別のものがあることに最近気が付いた。それは、みんなが見ているものと同じものを別の視点で見るということだ。(マネタイズできるのはこちらのほう。)

 

この業界は飽和しているからと考えていたり、おもしろいことがなにもないとおもったり、誰もが知っている観光地がおもしろくないとおもうのには、考え方に問題がある。だれもがやっていないことや少数しか知らないことを追求するのもいい。けれど、誰もが知っていることの、見方を変えることができるかどうかのほうが重要で、それを表現することが求められる。面白いことや特別で個人的な経験ではなく、誰もが知っていることの違う見方や表現力が大事だと気づかなかったことが、飽和だった。盲点だった。

 

芭蕉は歌枕を訪ねた。「山水画が人々を風光明媚な場所にいざなう。山水画ばかりではなく、山水詩も人々をいざなった。そのうち、人々はその場所に景気を感じてきます。その景気が盛られた場所が景色であり、その景色のよい場所がいわゆる名所になっていく。ここに風景の誕生があります。」「名所には、このような景気をはかるさまざまな条件がうまく寄りあつまる必要があります。そして、それらが象徴的な名所になるためには、多くの文人墨客が感嘆した表現をささげる必要もある。これが揃った場所が名所になるわけです。それゆえ、名所は歌枕と深く結びつきます。」(『花鳥風月の科学』松岡正剛より)

 

誰もが知る土地の違う見方を発見し、表現できたときに、おもしろいことがおこるのは、歴史が教えてくれていた。ということは、ぼくたちがすべきことは歴史を学んで、そのアティチュードを現代に翻訳することなのではないか。物語はいまもあらゆるものの裏で動いている。というわけで、やはり今年の目標が明確になった。なにをもってなにをみるかの、何を持ってを意識する。何を持ってを意識するために、表現するための方法を習得するために秋から入門する。